ナイトレイブンカレッジの図書室は、名門校の名に恥じない蔵書の量を誇っている。
天井付近まで積み上がった本棚の中には、他所の図書館ではお目にかかれないような魔導書がずらりと並ぶ。持ち出し禁止の棚の中には、有名な魔術書の原本もあるって噂だ。
(まるで宝の山ね)
アタシはとある本を探すため、そんな図書室の奥の奥、人っけのない通路を歩いていた。遠くに感じる誰かの気配、適度な沈黙が心地いい。
(ここね)
アタシはひとつの棚の前に立ち、本の背表紙を指でたどる。
(なかなか見当たらないわね)
目的の本が見当たらず指先をさ迷わせていると、横から不意に声がかかった。
「ヴィル、ヴィル」
アタシの隣には、いつの間にかカリムが立っていた。カリムは数冊の本を抱え、こちらを見上げている。
「あら、カリム。こんなところで」
「ヴィルこそ奇遇だな」
奇遇というのも無理はない。というのも、ここはこの学園の図書室に一架だけある児童書の棚だったからだ。
「探し物か?」
「そうね、少しだけ……ちょうど、アンタの持ってるその本を探していたの」
「ん? これか?」
カリムは抱えた本の中から青い背表紙の本を取り出した。本を受け取ったアタシは表紙を確認する。記憶のものより新し目だが、間違いない。子供の頃に大好きだったあの本だ。
「知ってる本なのか?」
「ええ、昔、気に入っていてよく読んでいたの。アンタ、これ読んだの?」
「まだだよ。でも、ヴィルが先に借りていいぜ」
「いいの? なら、遠慮なく先に借りるわ」
ずっと読みたいと思っていたから、順番を譲ってもらえるのは有難い。毒気のない、ふくふくした笑顔を向けるカリムに礼を言い、青い本を懐に収めた。
「ヴィルは昔から本が好きだったのか?」
「そうね、好きよ」
アタシはカリムの質問に頷いた。
「アタシの人生において、本は切っても切り離せない。化粧品作りの参考のために開いた魔導書も、役作りのために読んだお芝居の台本も、みんな本よ。アタシの持ってる寮長の杖が本なのも縁を感じるわ」
「そうか、本はヴィルの奮励のお供なんだな」
「そうともいえるわね」
そう言うと、カリムの瞳が温かく光った。真っ直ぐなその目は、あの射抜くようなグリーンに似ている。眩い光の色。昔なじみのアンバーもそんな光を宿して見てくることがある。
「ところで、アンタはここになんの用だったの?」
「オレも本を探しに来たんだ。深海と、人魚の本。こっちには珊瑚の海の昔話の本を探しに来たんだ」
カリムはきょろきょろと本棚を見回す。アタシも高い段にある本を見渡すけれど、そんな本は見当たらなかった。
「アンタ、深海で商売でも始めるつもりなの?」
「違うぜ、ちょっと勉強だ。ジェイドがたまにあいつの故郷の話をしてくれるんだけど、どれも怖い話ばっかりでな。ほんとにそんなに怖いところなのか知りたかったんだ」
カリムの口から飛び出したのは、ものすごく有能だけど底の知れない人魚の名前だった。
「それ、アンタを脅かしてるだけなんじゃない?」
ジェイドのトーク力は業界人にも通じていた。適切な話題を選んで話すことなんて造作もないはずだ。カリムを怖がらせたくて、わざとそういう話ばかりを選んでいる可能性もある。
「真面目に相手にする方が馬鹿を見るわよ。やめときなさい」
アタシが呆れてそう言うと、カリムは首を横に振る。
「オレが知りたいんだ。ジェイドのこと」
カリムは手持ちの本をぱらぱらと開く。ランダムに開いたページには、男の人魚の挿絵があった。
「ジェイドはよく気のつくやつで、オレにも良くしてくれる。だからオレも、なにかお返しが出来ればいいと思ったんだけど……その前に、まずは相手を知ることからかな、って思ったんだ」
人魚の生態についてはいまだに未知の部分が多く、特に警戒心の強い北の方の人魚の生態は明かされていないことが多い。輪をかけてミステリアスで自分を見せないジェイドのことを、まずは外側から知ろうとしているのだろう。
「自分で調べたいから、ジェイドには内緒だぜ?」
「アンタも奮励、ってわけね。それなら止めないわ」
カリムはにっこりと笑う。この子の場合はどんな雑学も家業に繋がるから、こういう寄り道もありかもしれない。でも、ちょっと純粋すぎ。愚直っていうのかしら、ちょっと心配になってきた。
「果たしてそうでしょうか?」
「んっ」
その時、唐突な否定の声と共に、横から黒い腕が伸びてきた。驚いて身を引くと、件の人魚がにこやかに会釈をしてきた。ジェイドはそのまま片手でカリムの目を塞ぎ、左手をカリムの肩に添えた。
「いつからいたの?」
「つい先ほど、お声が聞こえたものですから」
アタシはジェイドをジト目で見た。相変わらず、何を企んでいるかわからない。ジェイドはカリムの本を少しだけ読むと、カリムに話しかけた。
「お勉強は結構ですが……その本、古い学説が引用されているようです」
「えっ、そうなのか!?」
「正しい情報が載ったものをピックアップしてありますので、今からお持ちしましょう」
「そんなの悪いよ。それなら区分と場所だけ教えてくれないか? 自分で探したいんだ」
「遠慮なんて、僕達の仲じゃありませんか」
言い募るジェイドにカリムが食い下がる。
「でも、それじゃまた世話になっちまう。いつも沢山してもらってるのに」
「いいんです。上手く僕を使ってください。なんなら指南役につけてくだされば、読書のお供に飲み物もご用意しますし、肩のマッサージもいたします。読書すると目が疲れますから、おやすみ前に蒸しタオルをご用意しましょう」
……なんか、どんどん内容がエスカレートしてない? カリムと寮は別なはずなのに、夜まで付き添う気満々じゃない。それと、アタシの付き人をした時よりも手ずから感が凄いんだけど。
「そんな使用人みたいな真似させられない」
ジェイドの勢いに、さすがのカリムも動揺していた。そうよ、そんな押し売りを受け入れたら、代価に何を求められるか分からないわ。
「これが楽しみですから……僕や海に興味がおありでしたら、最初から聞いてくださればいいんです」
ジェイドは少し拗ねた言い方をした。それが珍しくて、アタシは狡猾な人魚を見上げる。声色も表情もいつも通りだけど、その視線だけは砂を吐くくらい甘い。
(もしかして、本より自分を構えってこと?)
呆れた! アタシは声に出しそうになるのを堪える。問答をしている間も、ジェイドはカリムの目を塞いだままだった。本からカリムの視線を横取りして、本が読めないように邪魔しているのだ。
「ジェイド、前が見えない」
「僕をお傍に置いて下さったら解放します」
「だからそれじゃ意味ないんだって」
ジェイドは自分に意識が向いたことが嬉しいらしくて、にこにことカリムの反応を楽しんでいる。
(見せつけてんじゃないわよ、全く)
そういえば、物語に出てくる人魚も軒並み執念深くて嫉妬深かった。後輩の悋気に嫌気がさしてきたので、アタシは横槍を入れることにした。
「それなら、アタシの本を探すのを手伝ってくれるかしら?」
アタシがそう言うと、ジェイドは隙のない笑顔を貼り付けてこちらを向いた。
「どのような本をお探しですか?」
「魔法薬学の本よ。灯火の花の治癒能力を生かした化粧水が作りたいの。参考になる本を探してきて」
「それならこちらは如何でしょうか?」
ジェイドはカリムの肩から手を外し、懐から折りたたまれた紙を取り出した。開いて中を見ると、数冊の魔導書の名前と著者名の他、ご丁寧に本棚の場所まで記してある。
「……あいっかわらずのスーパー秘書ぶりね」
「お褒めいただき光栄です」
「じゃあこれを探してきて頂戴。憧れのアタシからのお願い、聞けるわよね?」
試すように微笑むと、ジェイドはようやくカリムを解放した。胸に手を当て、完璧な礼を返す。
「もちろん喜んで。こちらでお待ちください」
ジェイドが本棚の向こうに行ったところで、カリムがアタシににっこり笑った。
「ありがとう、ヴィル!」
「次からは気をつけなさい。アイツの話に耳を貸すとつけ込まれるわよ。ほら、さっさと行きなさい」
「おう!」
これは本のお礼だ。この子が深海の悪魔に丸め込まれないように、今日だけは手を貸してあげる。
カリムがこの場を去ろうとしたその時。
「言い忘れましたが……下から三段目の、右から十四冊目。珊瑚の海の民話集です。誰かが間違えて戻したようですね。向こうの二人がけのソファが空いていましたので、そちらで読みながらお待ちください」
出ていったと思っていたジェイドがぬっと顔を出したので、カリムと二人でギョッとしたのだった。
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2021.4