「歯は大事なんです。それに顎も」
「へぇ」
カリムは脈絡なく切り出された話に、曖昧に返答する。話の筋が見えてこないな、なんて思いながら、海の友達の前にティーカップを置いた。
この友達、人魚のジェイドとのお茶会は、40回、いや、それ以上を数えただろうか。普段はストレート派だという彼の嗜好を汲み、甘さは各自調整にしている。
「歯ってこれか?」
カリムは目の前の紅茶に角砂糖を溶かしながら質問した。い、と歯を見せると、ジェイドは笑顔で頷く。
「ええ。捕った獲物の肉を食いちぎる歯です」
なるほど、そちらではそういう捉え方になるのか。人間の歯は繊維質をすり潰したり噛み潰したりするためのものだから、すぐに食いちぎる、という発想にはならない。その差異に素直に感心した。
ジェイドは人好きのする微笑みを動かさず、話を続ける。
「どの生き物も食べられないと死んでしまいますよね」
「そうだな」
「海では食材の調理方法も限られていますから、丈夫な歯が揃っていることは重要なんです」
確かに一理ある、歯が溶けるというのは、彼らの中で死活問題なのかもしれない。
けど、カリムの質問では、ジェイドの本心は引き出せないままだった。ジェイドの言葉はいつも蜃気楼みたいに遠回しで、カリムはいつも何となくで拾っている。
(アレかな? この前のもてなし用の茶が良くなかったか?)
なんとか頭で咀嚼して考えついたのは、以前振舞った自国のお茶のこと。熱砂の国では当たり前に飲まれているが、確かに初めて飲む人は噎せこむ人もいる。
(その時も歯が溶けそう、って言っていたから)
今回のこれは、甘いお茶を振舞ったことへの苦情かもしれない。「親切心から言ってくれた」と受け取って、カリムは眉を下げた。
「そうか、ごめんな。甘いのはもう出さないな」
「それは助かりますが、おそらく会話が食い違っています」
ジェイドは冷静に指摘した。違っていたらしい。ではなんだろう。
唇の向こうに、尖った歯がちらりと見えた。
「カリムさんの歯は丈夫ですか?」
「オレ? うーん、ひとまず欠けたことはないから、丈夫なのかな」
「顎は丈夫な方で?」
「硬い肉も食いちぎれるし、たぶん!」
総合的に見て丈夫だと思う、からそう答える。昔飲んだ強い毒でいくらか溶けているかもしれないけど、歯は全部欠けずにあるし、顎の骨も欠けていない。
「では、こちらに来られますね」
ジェイドのツリ目の瞳孔が僅かに開き、その面に喜色を湛えた。
「こちら、ってジェイドの故郷の話か?」
「そうです」
「うーん、でも丈夫さだけじゃ無理だと思うぞ?」
「なぜですか?」
「歯の形が違う」
ジェイドの頭についているものは小さな三角の歯だった。鋭角のエナメル質は彼が元の姿に戻った時もあったから、アズールの魔法薬は頭蓋骨の形まで変えなかったのだ。そうなると、逆も然りだろう。カリムが人魚になったとて、食物を食いきれなくて餓死するのがオチだ。
ジェイドはお茶の種類を提案するように、カリムの懸念を噛みちぎる。
「リノベーションしましょう。ヒトの歯は面積が広いから、削れば鋭くなります」
物理的には可能だろうけど、その提案はどうなんだろう。そんなことをしたら、今度は陸で暮らせなくなりそうだけど。
カリムはさらに疑問を被せる。
「そこ変えても骨は砕けないと思うぜ?」
「こちらの身体になる時に、歯の組成も変質するので問題ないかと。食料を噛み砕くのに必要な筋肉もつきますし。そうでなければ、海で暮らす元人間は生きていけていません」
「どこで勉強してくるんだ、そういうの?」
「陸に上がる前に教育訓練を受けていますので、その時に。ああ、ちなみに陸から海に入る人間のためのカリキュラムもあるそうですから、ご安心ください」
嬉々としてジェイドは進言してくる。会話が噛み合っているようで噛み合っていない気がするのは、気のせいではないだろう。
「とびきり綺麗な歯に仕上げて差し上げますね。手先は器用ですから、任せてください」
「お前がやるのか?」
続いたジェイドの言葉に、カリムは今度こそ身を引いた。
「ええ。それまでにちゃんと練習しますよ」
ジェイドは確定事項のように言った。
何かを悪いということは、案外難しいものだ。それが指摘してもいい事なのか、そうでないのか。世界は広いので、カリムは知らないことが沢山ある。不穏極まりないこの提案は、海ではどういう意味なのだろう。
(歯を捨てろ、ってことは……)
遠回しに陸を捨てろと言っているのだろうか。そしてその意図は、果たして自分が汲み取った方がいいものだろうか。
カリムは少し考えて、あはは、と笑った。
「面白いこと言うなあ! なら、奥歯は残してくれよ」
「なぜです?」
カリムがお願いすると、ジェイドは首を傾げる。カリムは当たり障りのない範囲で事実を伝えた。
「全部にGPSのチップが埋め込まれてるから。手術する時に神経抜いてあるから、蓋取っても痛くはないんだけどなー」
カリムは紅茶を口に含みながら答えた。
(期待させておいて裏切るのは、酷いもんなぁ)
たぶんこれは、汲み取らない方がいいもの。カリムが何かしらのシグナルを受け取った途端、ジェイドはそれを手掛かりにしてカリムに組み付くだろう。この予感はジェイドへの疑いではなく、彼ならこうするという人格への信頼だ。
「なるほど、尚更削りたくなりました。邪魔者の処分もお任せを。取り除いて粉々にしてしまいましょう」
そして、彼が自分のこんな反応をも楽しんでしまうことも、カリムには分かっていた。
物騒だなぁ。カリムは思いながらティーカップを置く。
「なあ、この話、楽しいか?」
「楽しいです。デートで将来の話ができるカップルは長続きするんですって」
向かい合うジェイドの瞳は、どこか熱っぽく揺れていた。カリムはその揺らぎを見つけて、ほんのわずかに息を詰める。
「知っていましたか?」
神秘的なオッドアイから執着を差し向けられた。
「へえ、知らなかった!」
カリムは笑顔で本当のことを言った。
「ふふふ、ではもっと知っていきましょう……知らないままでは勿体ないでしょう?」
ジェイドは熱を帯びた双眸をスっと細めた。
……やっぱりこのぐらいでは引いてくれないらしい。カリムはジェイドに見えないように、そっと脱力した。
(歯の話のインスパイア元:「海石」川上弘美先生著 パスタマシーンの幽霊より)