更新履歴

小波

 例えば、前を歩く白い後ろ頭に手を伸ばしたくなる。振り向きざまに大きなつり目と視線が絡む度、心の水面が波打つ。
 あの人といると、らしくいられなくなってしまう。
 故国の紅茶にひどく狼狽えさせられた。賢い言葉を連ねる彼に思考が止まってしまった。 自分のことなのに、理由はまだ分からない。
 だから、これもきっと、どうかしてしまっていたのだ。
 
 
 
 放課後の図書室は既に多くの生徒で賑わっていた。
 秋学期の期末試験。名門校であるこの学園の試験は簡単に突破できるほど甘くない。中間試験で打ちのめされた生徒も、さらに好成績を目指す生徒も、各々書籍を片手に追い込みをしている。
 そんな中、ジェイドは図書室を静かに歩く。次の手駒候補、もとい迷える子羊を探して。
(営業場所にここを選んだのは正解でした)
 ジェイドは密かに口角を上げる。既に今日の分のノルマは達成した。余計なことを問い合わせされないよう、ジェイドは足早に出口に向かう。早く寮に帰り、アズールと予定を擦り合わせなければ。
「おや」
 視界の端に白色が目に入り、書架の角で足を止める。奥の方で、高い位置にある本に手を伸ばす者がいた。
(あれは……カリムさん)
 ジェイドは気配を消して通路を覗いた。目線の先ではカリムが爪先立ちをして、一生懸命手を伸ばしている。何を探しているのだろう、ジェイドは好奇心に駆られ、そっとカリムの後ろに回り込んだ。
(ここは医学書の棚ですが……)
 二学年時どころか、学園に医学の授業はない。カリムは試験とは全く関係ない本を読みたがっているということになる。
(何故でしょう、気になります)
 カリムの知らない姿を見た気がして、気持ちがソワソワと浮き足立つ。ジェイドは好奇心の赴くまま近付いて、カリムの後ろに立った。腕を上げ、カリムの指の先にある本を抜き取る。
「うお!?」
 カリムが驚いて振り向いた。ジェイドはその反応に優越感を覚える。挨拶をして微笑んでやると、カリムはほっと目許を緩めた。
「ジェイドも勉強か?」
「そんなところです」
「偉いな、オレも試験がんばらないと!」
 カリムはジェイドを見上げてにこりとした。
「ところでそれ、もしかして取ってくれたのか?」
 カリムが視線を本に向けた。手を捻って表紙を読む。手に取った本は脳科学の本だった。ますます彼との関係性が掴めない。ジェイドはカリムと本を見比べる。
「困っていらっしゃるようでしたから」
 答えながら本をカリムに手渡した。 カリムは本を受け取ると目次を開く。しばらく文字を目で追うと、ううんと唸って本を閉じた。
 ジェイドはその様子をじっと観察する。
「カリムさんこそ、この本に何の用事が?」
「うーん、最近、ちょっと記憶が飛びがちって言うかな……」
 カリムが気まずそうに左下を向く。
「それは心配です。どのように?」
「あっ、いいんだ! ちょっとしたことだから、大事にしたくないし!」
 カリムは慌てて取り繕う。
「ほんとに、なんでもないんだ」
 カリムは朗らかに言う。しかしジェイドは、彼が僅かに本を抱き締めたのを見逃さなかった。
(困っていますね)
 天真爛漫な彼に不釣り合いな分厚い本。そんなものを読む位なら、誰かに頼った方が得策だろうに。
(誰かに相談できない理由があるのでしょうか)
 ジェイドは長駆を屈め、カリムに目線を合わせる。
「お困りなら力になります」
「ありがとう」
 ジェイドの申し出に、カリムがへらりと笑って答える。らしくない、少し静かな雰囲気を纏って。
 躱されたような気がしてジェイドの心に焦りが募る。この人間の心配事を暴いてやりたかった。 逸る気持ちを抑えるようにジェイドは右手を胸にあてる。
「本当です。僕は貴方のお役に立ちたい」
 ジェイドはカリムを本棚の間に追い詰め食い下がった。
(……これではまるで、頼ってくれと言っているよう)
 頭の中で冷静な自分が言う。ちっぽけな人間なのに、一緒にいるとらしく居られなくなるのだ。
「うーん」
 カリムは右上に視線を向けた。少しだけ考えて、ジェイドに笑いかける。
「じゃあ、この本を戻してくれるか?」
 そう言って、カリムは本を差し出してきた。それはやんわりとした拒絶だった。ジェイドは少しだけショックを受ける。
(壁を作られましたね)
ジェイドは本を受け取り、高い位置にある棚に戻した。下から礼が聞こえてくる。
「ジェイドは優しいな」
「本を戻しただけでしょう」
「本を戻してくれただろ? それに、オレのこと心配してくれた。困ってても、放っておけばよかったのに」
 カリムはにっこり笑う。カリムの瞳は慈愛に溢れていた。その海より深いガーネットに心臓をひどく揺さぶられる。
 ジェイドは波立つ心を抑えつける。心の小波を抑える方法は分からなかった。

ハッピーエンドは在庫に含まれるか

 僕の元にその封筒が届いたのは年末、大型休暇の足音に誰もがそわつく時期のことだった。
「年始の購買のアルバイト、受かった」
「は、マジ?」
 封筒の中身はアルバイトの採用通知書だった。向かいのベッドで驚くエースを尻目に仕事の要綱を確認する。けれど、嬉しくて内容なんかちっとも入ってこない。給料の良さから応募者が殺到し、抽選の倍率が数十倍になることで有名な購買部のクルーのアルバイト。ダメもとのつもりで応募したのに、まさか受かるなんて思ってなかった。
「これでヘルメットが買える……!」
 二万マドルって大金だ。僕がまだ学生だからというのもあるけど、それだけあれば何日分の食料が買えることか。日々のタイムセールで数円、数十円の差を気にしていたからこそありがたみがよくわかる。だから代金を母さんにねだるのは気が引けたし、型落ちして安くなるまで待とうって思っていた。
 そう思うと、採用通知書が急に輝いて見える。僕にとってまさに黄金のチケットだ。
「あー、そういえばね……そーいうことなら頑張れば。ムカつくからって客に喧嘩売るなよ、優等生クン?」
 ぐっと拳を握りしめた僕を見て、エースが後ろ頭を掻く。僕の応募理由を知っている分、エースの嫌味はいつもよりマイルドだった。
「カシラ……寮長に話通してくる!」
「いや、だからカシラじゃ」
 ねーってば。エースの声はドアの向こうに閉じ込められた。
 
 
 
「ようやく終わった……」
 初売りの日から数日、購買部のニューイヤーセールはようやく最終日を迎えた。
人の波を縫って品出しをし、客の問い合わせに応え、外に出て待機列を構築する。営業時間いっぱいまで働いて、その後は膨大な数の在庫チェックなどの事務作業。寮に帰ってシャワーを浴び、ようやく教科書と宿題を開く。開いて……三行くらいやって、書いてる文字が蛇みたいになってエースに笑われる。年明け早々そんな日々が続いていた。
「ふぁ……」
 だけど、それも今日で終わりだ。緊張感が抜けて欠伸が出た。すると、隣からも似たような音が聞こえた。
「欠伸、移っちまった」
「小鬼ちゃんたちは仲がいいねぇ」
 あはは、とからっとした笑い声。隣を向くと、一緒に品出しをしていたアジーム先輩が笑いかけてくる。その後ろを店主のサムさんが朗らかに通り過ぎた。
 厳しいアルバイトの日々だったけど、悪いことばかりじゃなかった。それは同僚とオーナーが親切だったことだ。僕はあまり器用な方じゃないから、足手まといになってしまわないか不安だった。けれど、親しみやすいアジーム先輩が一緒だったからこそ気負いすぎず、失敗しても笑って許してくれるサムさんがいたからこそ、アルバイトをやり遂げられたと思う。
 そのことを伝えると、アジーム先輩が急に頭を撫でてきた。
「オレからもありがとう、デュース。オレもデュースと一緒に働けてよかった。いつも一生懸命なデュースに元気をもらってたよ。こういう仕事初めてだったけど楽しかったぜ」
「俺も二人が仲良くしてくれて助かったよ。毎年クルーの小鬼ちゃん同士で喧嘩になることも珍しくなくってね」
「揉めてる場合じゃないのにな」
「忙しすぎて気が立つのかもしれないですね」
 物に溢れたバックヤードの中で笑い合う。背中を預ける仲間がいるのはありがたいなって思う。
「ヘルメット、ほんとに見せに来てくれよ。その時は絨毯に乗せてやるから」
「ありがとうございます」
 アルバイトが終わっても仲良くしてくれる気でいるらしい。ストレートな好意が嬉しくて、僕はアジーム先輩に笑い返した。
「よし、こっち終わった。サム、“あれ”してもいいか?」
 アジーム先輩が声をかけると、「オーケイ、俺は発注作業してるからゆっくり選んで」と返ってくる。
「あれ、ですか?」
 僕が聞き返すと、アジーム先輩はうん、と返事をする。
「ジェイドにプレゼントがしたいんだ」
「……なるほど」
 このアルバイトはシフトの時間が終わるとすっかり日が暮れている。リーチ先輩は決まった時間になると戸口に現れ、アジーム先輩を寮まで送っていた。それもほとんど毎日。仕事が立て込んでいると適当な椅子に座ってお茶を飲むか、気分次第で手伝ってくれる。終わると少し眠たそうなアジーム先輩の肩を抱いて夜の中に消えていく。夜の峠で見かけた野生の動物が森の奥に消えていくように。
「送迎のお礼ですか?」
 どんな事情があるかはわからないけど、アジーム先輩が困っている様子はなかったので詳しく聞いてはいなかった。今なら聞いても許されるだろうか。
「うん。それもあるんだけど、実はこのアルバイトに受かった時に背中を押してくれたんだ。……休みの間に色々あって寮を離れるのが不安だったんだけど、やってみたいことがあるなら躊躇うことないって。ジャミルを説得する時も一緒に話をしてくれてさ。一応、仕事の依頼っていうことにしてアズールにも許可を取ってるから、タダでってわけじゃないんだけど」
 アジーム先輩は少しだけ間を置く。
「しつこいと迷惑になっちまうかな」
「そんなことないです。きっと喜んでくれると思います」
 そんな裏話があったなんて知らなかった。豪胆なアジーム先輩がそんなことを考えていたことも。
「それだけ支えになってくれた相手なら、報いたいと思うのは間違いじゃないと思います。それに引き換え、僕は自分のことばかりだな……」
「デュースは最初から目的があったんだろ?」
「そうなんですけど」
 僕はうまく言えなくて口ごもる。
 自分の望みのためだけに動くのは簡単だ。今回だって、自分で稼いだお金を悪いことに使うわけじゃない。けれど、誰かのためを思ったとき、行動の手札は増える。他にもできることがあるんじゃないかって考えることができる。
 あの頃の僕じゃできなかった選択ができるんじゃないかって。
「……サムさん、僕もお店に出てきてもいいですか?」
「構わないよ」
「デュースも何か買うのか?」
 僕は立ち上がって肩を回す。
「僕も母さんにプレゼントを買おうと思って。地元にいた頃にすごく心配をかけたから、アルバイトを最後までやり遂げたって言えば、ちょっとでも安心してくれるかもしれないから……」
 言い終わったところで、アジーム先輩がぐすっ、と鼻を鳴らした。
「ううっ、デュース、いい子だなぁ!」
「健気な小鬼ちゃん達にお兄さんは感激したよ」
 サムさんが机に頬杖をついたまま暖かい目で見てくる。アジーム先輩に至ってはこの短時間で涙ぐんでいた。
「どんなの買うんだ? オレもお金出してやろうか!?」
「そ、それじゃ意味がありませんよ!」
「小鬼ちゃん同士でお金は出し合わなくていいよ。いい子でバイト頑張ってくれたから送料ぐらいはオマケしてあげる。金ピカの小鬼ちゃんは同じ額、値引きするからね」
「いいんですか?」
「その分これからもご贔屓にね」
「ありがとうございます!」
 それから僕たちは店頭で各々プレゼントの品を選んだ。アジーム先輩は何を贈るか目星をつけていたらしく、シンプルな黒いマフラーをを早速サムさんに包んで貰っている。
「包装は簡単にしておいたからね。すぐ渡すんだろ?」
「! うん、ありがとう」
「小鬼ちゃんの気持ちは間違いなく伝わるよ」
 表口に来客があったのは、サムさんがウインクをしたのと同時だった。
「入っていいよ、小鬼ちゃん」
「こんばんは」
 アーチを潜って静かな方のリーチ先輩が入ってくる。まるで闇から生まれたみたいに夜が似合う人だ。そして隙がない。死角から殴りかかってもすぐにいなされてしまう気がする。
「今日もありがとう、ジェイド」
「お構いなく。好きでやっていることですから。今日でおしまいになることが残念なくらいです」
 リーチ先輩は眉間を歪めて胸に手を当てる。
「これからも会うことはできるだろ?」
 少し不貞腐れた様子のリーチ先輩に、アジーム先輩が笑いかけた。
「ジェイド、これ」
「これは?」
「稼いだお金で買ったんだ。ちゃんとお礼がしたくて……開けてみてくれよ」
 アジーム先輩がリーチ先輩を促す。リーチ先輩は言われるがまま金色のリボンを解いた。
「アルバイト、楽しかった。一緒に歩いてくれてありがとう、ジェイド」
 アジーム先輩の目が、うるりと照明を反射する。リーチ先輩はそれ見て目をすがめた。
「ありがとうございます。お気持ち、確かに受け取りました。大切に使います」
「良かったですね、アジーム先輩!」
「うん!」
 無事に感謝の気持ちは伝わったようだ。嬉しそうな先輩方の様子に心が温まる。
「巻いてやるよ。貸してくれ」
 リーチ先輩はマフラーを腕ごと遠ざけた。
「ここでは人目があって恥ずかしいです」
「気にしなくてもいいのに。俺も仲間も気にしないよ?」
「僕が気になります。外に行きましょう、カリムさん」
「うん。荷物取ってくるな」
 アジーム先輩はバックヤードに飛んでいくのを見送ると、サムさんがリーチ先輩に向き直った。
「欲しいものは手に入りそうかな、紳士的な小鬼ちゃん?」
「ええ、ご心配には及びません」
「この先、必要なものがあったらぜひご用命を」
「恐縮です」
 含みのある会話に首を傾げる。どういうことかと聞く前にアジーム先輩が戻ってきてしまった。
「それでは失礼します」
「世話になったな。デュースも気を付けて帰れよ」
「はい。先輩方も気を付けて」
 パタン、と扉が閉まった。
「サムさん、さっきの会話はどういうことですか?」
「見ていればわかるよ」
 僕はそっと窓に近づいて、縁の下に身を隠す。サムさんもいそいそと窓際に近づいてきた。外を覗くと、建物から少し離れたところに二人分の影が浮かび上がっている。
「仕事終わりに心配だからって迎えに来てくれる男は早々いないよ。いるとすれば親か恋人か仕事の都合……それ以外なら例えば、二人きりの口実が欲しい似非紳士(ジェントルマン)か」
「え、それって?」
 小さな方がマフラーを巻き終えたその時、大きな方が急に片方を抱き寄せた。ぴったりとふたつのシルエットがひとつになる。

「この店はなーんでもIN STOCK!! 素敵な恋の結末もお任せってね!」

 絶句する僕の頭の上で、サムさんは高らかに笑った。

ジェイカリ3

快適

 今日の太陽は全てを焼き尽くすようだった。おかげで風呂の水面を叩く雨音が遠い。
ぼやけた思考で自室の風呂に水を張りながら、カリムは汗で湿った服に手をかけた。
「うぅ〜……」
 試験の監督を任されたのはいいものの、少し遊びすぎたようだ。魔法の受け過ぎだろうか、身体中が火に巻かれたように熱い。水の中で燻る熱を逃がしていると、脚元の水が揺らいだ。
「ジェイド」
 波打つ方に頭を傾げると見知った顔があった。今日は顔色が碧い。なぜここにいると尋ねると、通されたからですと答えられる。
「快適です。お邪魔して正解でした」
 風呂の縁に腕を乗せ、ジェイドはどこか楽しそうに尾の先を振るう。
「お加減はいかがですか?」
「ううん、もう少し」
「太い血管を冷やしてみましょう」
 水かきのある手が首にかかる。硬い爪の中ほどが皮膚を圧迫した。
「はは、しんじゃうよ」
「まだ死んではいけませんよ」
 あんな炎天下で無茶をして。ジェイドが穏やかなトーンで言った。
「陸に上がってトントン拍子に楽しい人を見つけたのに、呆気なく手が届かなくなってはつまらないので。なるべく長生きして、ひとつでも突拍子もないことをしていただかなくては」
 身勝手な言葉とは裏腹に、こちらに水を送る尾の動きは優しい。
「心配してくれてるのか?」
「僕の楽しみが減ることを危惧しています」
「ああ……うん、いいか。そのぐらいの方が」
 昔から生きろも死ねも願われ慣れている。不器用な身だ、期待は軽い方が助かる。
「ここを出たら楽しいことはあるか?」
「新鮮なココヤシを用意しています」
「ならジュースを飲むまでは生きようか」
 へりを離れて水に浮かぶと頭のてっぺんがじんわり冷える。するとぬるりとした長いものが腹に巻き付いた。
「溺れ死なないよう見ていますから、少し目を閉じていてください」
「ありがとう」
 身体の力を抜くと、まるで本物のラッコのようですと笑われた。

 
 
 
匂い

 情報収集のために開いた雑誌で知った。人間は自らのパートナーと寝巻きをシェアすると。
「僕のサイズであればカリムさんに着せられそうですね」
 恋人の彼とは体格に差がある。小さい服をギチギチに伸ばして纏い彼を慌てさせるのも一興だが、ここは素直に自分の服を着せるべきだろう。
「さて」
 僕の手元にはパジャマの上着、目の前にはくうくう寝こけるカリムさん。楽しみは恋人の部屋に泊まりに来たのに先に寝てしまった粗忽者には内緒で行うことにする。
 一度眠ってしまうとなかなか起きないので着せるのは簡単だった。シナモンを思わせるしなやかな腕を彼が選ばないであろう濃紺のシンプルなシャツが覆っていく。
 (ふむ)
 カリムさんを寝かせ直して今日の悪戯の出来を眺める。裾も肩も布地が余り、上体と尻を隠している。ズボンを身につけているのでいやらしさはないが、その分子供が大人の服で遊んでそのまま眠ってしまったような微笑ましさがあった。
(可愛らしいですがドキドキはしませんね……おや?)
「う〜……」
 しばらく眺めているとカリムさんが唸った。ころりと寝返りを打つと袖口が鼻の近くに来る。ひく、と鼻が動いたかと思うと、やんわりと表情が緩む。
「へへ」
 ……とても恐ろしいものを見た。この生き物は無意識下ですら僕を翻弄してくるのだ。油断も隙もない。
(僕の匂いが好きだと聞いてはいましたが……本当にお好きなんですね)
 愛されていると、この人と付き合っていると節々で思う。濁りのない愛情というのはどうしてこんなに心を満たすのだろう。耐えきれなくてまろやかな頬に触る。それだけでは足りなくなって、ベッドに寝そべってカリムさんを抱き込む。
「頂いた分、少しでも返せているでしょうか」
 布地に包まれた背中を撫でる。それをむずがったかと思うと、カリムさんは額を僕の胸に押し付けてきた。
 もう今日はこのまま寝てしまおう。僕は指先を照明に翳した。
 
 
 
大好き

 いつもより右のほっぺがあったかい。なんでだろう。目を閉じたまま考えていると、大好きな声がオレの名前を呼んだ。
「おはようございます」
「寝てたか?」
「ええ、ぐっすりと」
「あー、ごめ……んっ?」
 せっかく部屋に泊まりに来たのに、ジェイドの仕事が終わる前に寝てしまったみたいだ。謝ろうとして目を開けて驚く。
「……なんで脱いでるんだ?」
「わけあって貸し出し中です」
 裸のジェイドがオレの背中を撫でる。確かにいつもの寝間着と違う肌触りがした。寝ている間に着せられたらしい。それにしても、大人びた仕草が様になっていてかっこいい。
「全然覚えてない」
「そうでしょうね」
 腕を持ち上げると、紺色の上着から指だけが飛び出している。
「長さが全然違う」
「裾が余ってしまいますね」
 ずり下がる布地を追いかけてジェイドの指が這う。触り方がゆっくりでちょっとえっちだ。そういう気分なのかな。寝ぼけた頭ではよく考えられないけど、恋人に触ってもらえるのはすごく嬉しいなって思う。
「ジェイドは大きいんだな」
 いつもジェイドが身に着けているものがオレの肌に触れている。そのことが嬉しくて大好きで、くすぐったい。気持ちが止まらなくて裸の胸にちゅってすると、背中を撫でていた手が止まった。オレはぐーっと首を伸ばして、白い鎖骨に鼻を押し付ける。
「んー……」
 大好きな匂いに安心していると急に視界が回った。頭が追い付かないうちにジェイドに乗っかられ、両手首を縫い留められる。
「わざとそんなお戯れを?」
 低い声が興奮で揺れている。それに煽られるように臍の下がくすぶった。
「小細工なんてできないよ。わかるだろ?」
 オレはジェイドの腰に両脚を巻き付けた。そしてメロメロなのを隠せない声で頼む。
「きてくれ」
 オレの願いは届いたらしい。ジェイドは拘束を解いて指同士を絡ませあう。そんなことさえ嬉しくって仕方ない。
 この気持ち、伝わってるといいな。オレは幸せな気持ちでキスを受け入れた。
 
 
 
真珠(不穏注意)
 
 カリムさんはすぐ騙される。
 見知らぬ他人の言葉ならいざ知らず、身近な相手の言葉を、棘も毒も気にせずそのままするりと飲み込んでしまう。
「また騙したな!」
 そんな彼に真偽の曖昧な嘘をついてからかうことが最近の楽しみだ。引っかかる時もあれば見抜かれることもあるが、今日は後者だったようだ。
「騙される方が悪いのです。無知でお気の毒」
 毛を逆立てる彼にいつも通りとどめをさすと、目の前の顔からスっと生気が失われた。
「……からかい過ぎてしまいましたか?」
 握ろうとして掬い上げた手が滑り落ちていく。
「……オレ、ほんとは嘘をつかれるのが辛いんだ」
 零れ落ちた言葉が心臓に指をかけた。
「今日は疲れたみたいだ。もう帰るな。また明日」
 ……かけただけで、握り潰して反発してこなかった。
(いつもより疲れていて、本人も流しきれなかった、と。警戒が長続きしない気質と信じようとする癖が、余計に彼を疲れさせたのでしょうね)
……愉悦が背骨をぞくぞくと駆け上がる。
(ようやく見えた)
 埃っぽい砂漠で見た生々しい弱さが目の前にあった。鎧の下に隠された柔らかい肉の部分を、自らの歯で感じることかできた。
(悪意を感じまいと必死なのですね)
 弱った姿にあらぬところが熱を帯びる。吐き出した興奮が黒い革を湿らせた。
 きっと彼に寄り添い続ければ、硬い蓋の中身を愛することを許されたであろう。本来の幸福を捨ててまで凶行に及んだのは、確実に彼のたった一度になるため、彼の敵意を独り占めするためだ。
 そのためならどんな種類の感情であっても構わなかった。だから僕は、より人が選ばない場所に根を張ることを選んだ。
(僕たちだけの宝物、もっと大きくしなくては)
 悪意の核は順調に彼の心を圧迫してきている。けれど、まだ足りない。このさき一生、他の宝に埋もれないよう育て上げなくては。
 僕たちの愛はどんな形を成すだろう。楽しみでならない。
 
 
 
かわいい
 
「やりすぎちまったか」
 カリムさんは押し込まれた客室で頬をかいた。
 彼からすればただ友人を労っていただけなのだろうが、同年代が密着して乳繰り合う状況を容認できるのは一握りだろう。僕も自身の愉悦のために便乗しているに過ぎない。
「お部屋を宛がわれたことですし、せっかくなのでもう少しケアしあいませんか?」
「ん? オレは平気だって」
 カリムさんは笑顔で人の愛情を無下にしてくる。さっきから頑なに僕からの接触を受けようとしないのだ。遺憾ではあるが切り替えたほうが賢明だ。
「では僕が労られましょう」
「それならいいぜ、ほら」
 伸ばされた腕の中に納まり、背中に両手を回して抱き込む。
「ハグが好きなのか? かわいい、意外と甘えん坊なんだな」
 カリムさんのかわいいの幅は広い。甘えたの同性は外見に関わらず愛すべしと判別されるようだ。こちらからすると懐に収まるその姿が可愛らしいのだが、判断に不備があるのか本人は除外されるらしい。
「僕にその評価を下すのは祖母と両親くらいです」
「そうか? 普段とギャップがあってかわいいのに。ほら、もっとしてやる」
 カリムさんは抱擁を強め、あまつさえ僕の鎖骨に頬を押し付ける。負けじと抱きしめ返すと「痛い、痛い」と悲鳴が上がった。
「ではこちらで」
「あははっ! 脇腹はだめだって! くすぐったい!」
 爆弾が投下されたのは、他愛ないじゃれあいが楽しくなってきて、次を仕掛けようとしていた時だった。
「ふー……ジェイドに抱きしめられると安心するな」
 カリムさんはそう言って僕の腕の中に納まりなおす。
「最近は弟達を抱っこする側だったから忘れてた」
 痩躯を深く抱擁すると、珍しく本人の心のうちを見せてきた。白い頭を撫でるとこちらに体重をかけてきた。
「可愛らしい」
 ときめきのままにつむじにキスすると、「わっ」と悲鳴が上がった。
「あっ、からかっちゃだめだぜ?」
 先にそう褒めたのは自分なのに。僕は自分を棚に上げる彼に笑ってしまった。

平等に青

 乾いた風が頬をかすめていく。熱風に眼球を覆う涙まで蒸発しそうな気がして、僕は強く瞼を閉じた。目を開けると、故国とはまったく違う歴史を辿った街並みがある。
 ここは絹の街。人間の暮らす国、熱砂の国の商業都市だ。
「ツノ太郎、なにぼさっとしてんだ? 置いてくゾ」
「すまない、すぐに行こう」
 小さな魔獣に促され、僕は騒々しい路地に踏み出した。
 
 
 
 茨の谷の王族である僕がなぜ護衛もつけずに外国の都市を学友と歩き回っているかというと、一人の臣下と、一人の『友人』の計らいによるものだ。
『マレウス。ワシは明日、急に腹が痛くなる予定がある』
 長い付き合いであるリリアの妄言に首を傾げる。
『ベッドから動けなくなる程度の腹痛に襲われ、絹の街に観光に行けなくなるのじゃ』
 つまり、僕一人で熱砂の観光に行けということか。聞き返すとリリアはニヤッと笑った。
『世界は広い。広い世界を歩いてみると、肩書きも種族も意外と垣根のないものだとわかる。ワシも是非ともお供したかったんじゃけど、どうもシルバーやセベクの世話にならないといけないくらい腹が痛くなる予感がしていてな、困ったもんじゃ』
 リリアとは長い付き合いだ。こんな白々しい言い分の真意を見抜けないわけがない。見聞を広げてこい、とリリアは言っている。学生のうちしか許されない動き方をもってして。
『羽を伸ばすつもりはない。お前達を蔑ろにしているわけでも。心配しなくても自力で解決する。そう2人に伝えておいてもらえるか?』
『あいわかった。楽しんでくるんじゃぞ』
『……恩に着る』
 リリアはにっこり笑ってその場を去った。
 こんな風に突然予定が入るとは。しかも国賓ではなく学生の身分として後輩の国を訪れることになろうとは。何が起こるかわからないものだ。
 
 今日の僕の訪問はリリアの取り計らいによる非公式のものだった。しかし、当日になって問題が発生した。僕の同行が非公式すぎたことだ。
 どうやらリリアは、招待主のアジームにすら、己の欠席と僕の同行を連絡していなかったらしい。
(……随分な出迎えじゃないか)
 合流した面々の驚いた顔を見回す。招かれないことには慣れていたつもりだが、やはり面白くはない。
 そんな中、アジームが一歩前に進み出る。
「そんなことないぜ。大切な『友だち』がうちに遊びに来てくれてうれしい」
 僕に相対するアジームの目に迷いはなかった。
「友人か」
 他国の王族である僕にアジームは『友人』という肩書きを与えた。その瞬間、ここにいる僕はただのアジームの学友、マレウス・ドラコニアとなる。
「歓迎するよ、マレウス」
「いいだろう」
 僕を見上げたアジームが歯を覗かせて笑った。
 
 
 
 日中に絹の街を歩き回り、花火大会を鑑賞して、時間はあっという間に夜になった。照りつける陽射しは鳴りを潜め、花火が散らした噴煙が月の浮かぶ空を覆っている。
 眠る砂漠の都を空から見たらどう見えるだろう。部屋を抜け出すために服を召替え、バルコニーに出る。すると、斜め上にはためく布の影が見えた。
「アジームか」
 相手はまだこちらに気づいていないようだ。瞬間移動をして驚かせたら、挙動の大きいアジームが落ちてしまうかもしれない。
(あのくらいの距離なら造作もない)
 僕は身体に魔力を行き渡らせる。身体は軽く、空でも飛べる。想像しながら石の床を蹴る。
たまには直接飛ぶのも悪くない。
「アジーム」
「……! マレウス!」
 アジームは親しげに僕の名前を呼んだ。
「こんな夜更けに散歩か?」
「うん、なんか寝付けなくってさ。乗るか?」
「いや、こちらの方がいい」
「じゃあどこかに降りようか。絨毯」
 合図をすると、魔道具は緩やかに降下を始めた。
「今日は世話になったな。礼を言うぞ、アジーム」
 地上に降りた僕らは中庭の噴水のへりに腰を掛けた。招待主に伝えられなかった礼を言う。
「マレウスを呼んだのはリリアだし、案内したのはジャミルだぜ?」
「僕の訪問を受け入れる許可を出したのはお前で、ガイドの手配もお前だろう。お前に礼を伝えるのが筋というものだ。礼儀知らずな真似はしない」
「いいって、『友だち』が来てくれるのは大歓迎だぜ。どうだ? 絹の街は楽しかったか?」
「興味深かった。茨の谷には無いものが多かった」
 厳しい環境に都を築いたこともあってか、絹の街の建築物は独特なものが多かった。根付いた魔法の質も違う。
「文化は国の成り立ちを表す要素のひとつだ。食や貿易、暮らしぶり、全てが自然に堆積された生活の積み重ねで、それ自体が歴史だ。無駄はそぎ落とされ、有用なもののみが残って洗練されていく。誰にでも暮らしやすいとは言えないが……とてもいい街だった」
「ありがとう! 褒めてもらえると嬉しいよ。熱さは大丈夫だったか?」
「暑かったが、ターバンのおかげでだいぶ和らいでいたな」
 頭を覆うように巻き付けた派手なターバンは日除けとして役に立った。これも彼らが培った生活の知恵という奴だろう。だが、それだけではない。あのターバンが余所者達を景観に馴染ませ、様々な立場を優しく覆っていた。ちょうど、朝方にアジームが見せた配慮のように。
「アジーム、聞きたいことがある」
「なんだ?」
「リリアに今日の不参加の連絡は受けていたか?」
「いいや、鏡の間で知ったな」
「そうか、迷惑をかけたな」
「謝ることなんてないよ。リリアは具合が悪くなって、マレウスだけがうちに遊びに来ただけだ」
 アジームはにっこりと笑う。
「正直に言うと助かった」
 彼の気配りは立場を同じくしないと有難みが伝わりづらいものだ。過剰な気遣いは時に配慮される側の負担を招く。
「全然いいぜ……あ、そうだ!」
 アジームが急に何かを思い出した。ポケットから液晶端末を取り出してすいすいと操作していく。
「リリアから連絡が来てたんだ。忙しかったからすぐに見られなかったけど……」
 メッセージ画面には黒い四角が映し出されている。アジームが四角をつつくと黒い画面が広がった。
「動画だな」
「……? スカラビア寮か」
「うちの寮生は熱砂の国出身の奴も多いんだけど、そいつらが今日の花火を懐かしがって花火大会をしてるみたいなんだよ。リリアも来てたみたいだな。シルバーとセベクもいる!」
「お前が居なくても宴が行われているのか?」
「みたいだぜ。みんな、楽しそうにしてるな」
 アジームは心底嬉しそうにしている。だが、どこかそれは他人事のように感じられた。
「そぐわないものは受け継がれないと言っただろう。寮生にアジームの熱意が伝わったのだと素直に誇ればいい」
「……そっか」
アジームはくしゃりと笑った。
「ところで……これはリーチか?」
シルバーの横で花火を眺める長身の男を指さすと、アジームは飛び跳ねんばかりに食いついた。
「おおっ、ほんとだ!!」
アジームは動画を消して端末を操作する。
『ジェイド! うちの宴に来てくれてるんだってな。楽しんでるか?』
アジームが文字を打つ手を止めると、すぐに通知音が鳴った。
『僕を置いて故郷に帰った人の分まで』
「ま、まだ怒ってる……」
「アジーム、リーチは呼ばなかったのか?」
あまり交流のない僕ですらリーチとアジームが「そういう仲」であることを知っている。確かに、今日の催しに招いていないのが不自然だ。
「あー……呼べる人数も限られてたし、今回は大きい音に慣れてる軽音部の奴らを誘ったんだ。派手なイベントを楽しんでくれるかなって思って……。それにオレは挨拶もあったから、一緒に回れないから」
「理由があるなら胸を張ればいい」
『その理由は昨日聞きました』
「盗聴か。リーチ、肝が据わっている」
『お褒めいただきどうも』
薄い機械から取り澄ました声が聞こえる。不機嫌なリーチにアジームが面白いくらいうろたえていた。
「アジーム、許可は出しているのか?」
「うん。偉い人と話すときはオフにしてた」
聞かせる内容はアジームで操作できているようだ。
「しつこい男は嫌われると聞いたが、リーチ?」
『僕の故郷では熱意のない男性は相手にされません』
「自信がないと言い換えたほうがよかったか?」
盗聴器とメッセージでノータイムの会話が続く。いちいち返事を読まなければならなくてまどろっこしい。そもそも、立場ある人間に私情で盗聴器を仕掛けるなど言語道断だ。
「アジーム、あまりこういう手合いを付け上がらせない方がいい。厄介だぞ」
アジームが言いづらそうに唸る。
「これ、オレからつけていいって言ったんだ。ジェイドが安心するならそれでいいと思って」
アジームは小さく息を吸い込んだ。
「……オレの恋人だって紹介したら、祭りに紛れてジェイドにひどいことをする人がいるかもしれないだろ」
剝き出しの肩を絨毯が包む。
「リーチがそう簡単にやられるとは思えないが……僕のように立場を偽らせることは考えなかったのか?」
「嘘ついてもすぐばれちまうからさ。……ジェイドに嫌われるのが怖くて、きちんと最後まで説明できてなかったな」
ごめん。アジームは何もない場所に頭を下げた。
「ままならないものだな」
「そういう宿命だからな。オレはそれで諦めがつくけど、ジェイドはそうじゃないから。まだうちには時間が必要だから、恋人とか、そういうのは」
「……つまりアジームはリーチを両親にそういう相手として紹介する気でいるということだな?」
『そこまでで』
核心を突こうとしたところで止めが入った。
『その先は僕が先に聞くべき内容です』
ふむ、それもそうだ。
その発言からややあって、リーチはもうひとつ吹き出しを追加した。
『貴方の真夜中は僕の専売特許です。今後もずっと』
その発言に身に覚えがあるのだろう。端末を支える細い指が震えた。
「熱烈だな。リーチ、なかなかやるではないか」
『恐縮です』
アジームは黙ったまま短い眉を寄せ押し黙っている。言葉ひとつでここまでかき乱されては身が持たないだろう。
『部屋に戻ったら電話をください。五分以内に連絡がないなら今すぐ校長室に忍び込みかねません』
「早く部屋に戻れ、アジーム。このままではリーチが飛んできかねない」
「う、うん!!」
アジームはハッと顔を上げ、慌ただしく絨毯を広げ直す。
「……青いな」
「何か言ったか?」
 振り返るアジームに被りを振る。
「なんでもない。アジーム、今日は世話になった」
「こちらこそ。来てくれて嬉しかったよ、マレウス」
絨毯が慌ただしく来た道を戻るのを見送ってから、僕も上空に舞い上がる。
魔族も人間も人魚も、平等に青く。この月のように。それもきっと、受け継がれるべき真実なのだろう。

泣き寝入りなんてない

 Twitterでネタだけ出したものが奇跡的に作文になったので
 七夕の物語パロです。織姫♂:カリム君、牽牛:ジェイドさん、天帝はモブです。カリム君のリアルとーちゃんとは関係ありません。
 よりなんでも許せる方のみよろしくお願いします。
 
 
 
 
 むかしむかし、あるところに天帝の子どもがおりました。明るく素直で踊りの上手な天帝の自慢の子どもでした。
 宇宙を統べる神様の子どもであれど、遊んで暮らしているわけではありません。数ある仕事のうち、子どもは神様の着物の布を用意する仕事が与えられておりました。子どもは機織りがたいそう得意……というわけではなく、その実力は中の下ほど。小さな機織り機で机の飾り布を織るのがやっとな程でした。
 しかしその代わり、彼は商才に溢れておりました。
「神様の着物の布をひとりで織るのは大変だから手分けしよう。手伝ってくれる人にはお給料をたくさんあげたい。そのためにはどうしたらいいかな?」
 子どもは人を集めるために会社を立ち上げ、手先の器用な者を雇って機織りの仕事を教えました。職人たちが自分の力量を超えてくると、今度はもっと機織りに詳しいものを呼んできて教えを請います。雇われた者たちは安定した収入と職場環境でのびのび働き、めきめきと機織りの腕を上げていきました。
「今日も頑張ってくれてありがとう。こんなに素敵な布を作り出せるみんなはオレの自慢の仲間たちだ」
 子どもは大好きなみんながひとつひとつ、心を込めて作る布が大好きでした。子どもは織られた布を大げさなほどに褒め、職人たちに感謝を伝えます。
「あんな風に言われちゃ、頑張らないわけにはいかないよね」
「今日も神様達とご子息様のために頑張ろう」
 こうして着物の布の生産力が格段に上がり、神様たちが服に困る心配がなくなりました。生産にちょっと余裕が出た分、ハレの日用に作らせた派手な布の評判も上々です。
「よーし! もっとうちの織物の魅力を知ってもらおう!」
 子どもは自ら神様たちの元に赴き織物を売り込みました。特に評判が良かったのは織った布を纏って踊る商法で、煌びやかなものを愛する神様たちにとても喜ばれました。色とりどりの織物を纏い舞姫のように踊るため、いつしか子どもは男の身ながら「織姫」と呼ばれるようになりました。
「商売は順調か?」
 天帝は急いで食事を摂る織姫に話しかけました。
「うん。神様たち、みんな喜んでくれてるよ」
「そうか。明日はどこに出かけるんだ?」
「明日は東の神様に新作の織物を見せに行って、明後日は養蚕の農家さん家に行ってご馳走になってくる。それからその次は……」
 忙しそうな織姫に、天帝はそっと溜め息をつきました。
 最近、織姫は仕事に打ち込むあまり、自分自身のことに関心が向かないようです。休む暇なく働き続け、辛いことを誰かに吐き出している所を見たことがありません。集団の長に孤独は付き物。天帝は彼が疲れと寂しさからポキリと折れてしまわないかと心配だったのです。
「……寄り添ってくれる者を探してあげないといけないな」
 天帝は織姫に伴侶を探してあげるために腰を上げました。
 
 
 
 ある日、織姫が商談のために川の向こうまで出向いた時のことです。
「長閑だなぁ。この辺は畜産が盛んなんだっけ」
 穏やかな風が長く伸びた牧草の葉を揺らします。このあたり一帯は肥沃な土壌から牧草がよく茂り、牛たちは豊富な餌を食べながら思い思いに過ごしていました。
「ここの家は広い土地で牛を育てているんだな」
 織姫が柵の近くで足を止め、母牛と戯れる子牛に目を細めていると、近くの小屋から背の高い男が出てきました。
「おや」
「あ、人がでてきた。こんにちは!」
 織姫は元気に挨拶しました。
「あまり牛の傍で大きな声を出してはいけませんよ。牛たちが驚いてしまいます」
「ああっごめんな。お前もびっくりしたか?」
 織姫は近寄ってきた男に詫びました。牛たちにも声を掛けると、寄ってきた子牛が織姫の手を舐めました。
「人懐っこいんだな」
 織姫が喉元をかいてやると子牛は気持ちよさそうに首を伸ばしました。
「手馴れていますね」
「家に動物が大勢いるんだ。世話する人も何人か。お前はひとりで牛たちの世話をしているのか?」
「はい、僕ひとりで営んでおります。たまに兄弟にも手伝わせますが」
 男は愛想良く答えました。
 織姫は男を気に入りました。牛たちものびのび暮らしていて、男に大切にされていることがわかります。
 なんだか仲良くなれそう。織姫は直観的にそう感じました。
「なあ、またここに遊びに来てもいいか? えーと、」
「牽牛と申します。今日はもう行ってしまわれるのですか?」
「うん、向こうの都に商談に行かなくちゃ」
「そうですか……もう少しお話したかったのですが、残念です」
「ありがとう、また今度話そう」
 織姫はにっこり笑うと目的の都に向かいました。
 織姫が道の向こうに消えた後で、牽牛はほうっと詰めていた息を吐き出します。
「ようやくお話できました。ここに土地を借りて正解でしたね」
 実は牽牛は、以前から織姫のことを知っていました。
 天帝の子どもが変わった方法で織物を売り込んでいるという噂を耳にし、かねてより牽牛は織姫に興味を持っていました。牽牛は織姫とお近づきになるために一帯を牛耳る昔馴染みに頼み込み、担い手のいなかった牛飼いの仕事を請け負わせてもらいました。
 大きな道沿いに農地を借り受け、織姫の目につきやすいよう周りの土地を脅して巻き上げ……いえ、交渉して手に入れました。興味を持ってもらえるようわざわざ道側に放牧場を作ったおかげで、織姫を平和的に足止めすることに成功しました。
「近くで見るとより素敵でした」
 牽牛は織姫が道を通りかかる度、その華やかな姿を遠目で見ながら想いを募らせていました。織姫の評判を聞いてこっそり神々の宴に潜り込み、自分では思いつかないような方法で神々の歓心を買う彼を見てからというもの、牽牛の中で織姫の存在が日に日に大きくなっていました。
 きっと僕たちは誰よりも仲良くなれる。牽牛はそう考え、織姫と仲良くなる機会をうかがっていたのです。
「次はお帰りの際にお声がけしましょう」
 牽牛は近寄ってきた子牛の頭を撫でました。
 これが織姫と、後の伴侶である牽牛の出逢いでした。
 
 
 
オチが思いつかないのでここまで

手を並べる

「前から思ってたんだけど、デカいよな」
 手が。そんなことを言いながら、白い睫毛の下の瞳が僕の手を遠慮なしに観察してくる。グローブを外した僕の手が珍しかったのだろう。カリムさんはしげしげと僕の手を観察してきた。
「気にしたこともありませんでした」
 僕は前に手を翳した。節も傷も欠けもない、なんの変哲もない手だ。白い肌や短い爪はたった二年の付き合いだが、毎日見ていれば見慣れる。
「ほら、見てみろ」
 カリムさんは僕の手の横に自分の手を並べた。体格差があるから当然だろうが、添えられた手はひと回り小さかった。
「こうして重ねるとよくわかる」
 カリムさんは伸ばした手を僕に向けた。意図を組んで掌を合わせてやる。
「ううん、やっぱでっかいな」
 カリムさんの指先は僕の第一関節の中ほどまでも届いておらず、指の付け根も少しばかり下の方にあった。
 人種の違いは骨格や筋肉量にも現れる。人魚とはいえ、北方寄りの僕は上背があり筋肉がつきやすかった。逆にカリムさんはコンパクトに引き締まった身体をしている。
「人魚に戻ればもっと大きいですよ。爪も長いですし、水かきもありますから」
 重ねた指をほんの少しずらして、カリムさんの指の間に自分の指を滑らせる。
「握力も強いので人の手くらいなら容易に折れます」
 自分より高いカリムさんの体温に気を良くして、笑顔で教えてやる。こういう所が油断ならないと言われるところなのだろうが、これも僕なりの楽しみ方だ。
「今も、普通の人より力はありますけど……試してみますか?」
 カリムさんを揶揄うため、絡めた指に僅かに力を込めた。
「折られちゃうのは困るな。痛いんだぜ、折れる時」
 カリムさんは予想していたより落ち着いて答え、すっと手を離した。
「おや、残念です」
 せっかくの温もりが離れたことが寂しくて口に出す。
「そういや、シルバーも手がでかかったような……」
 脅されたことに特に気分を害する様子はなく、カリムさんは頭上を飛ぶ級友を探しはじめた。くだんの彼は実技を終え、煌めく髪を風に遊ばせながら下降しているところだった。
「オレ、ちょっと行ってくるな!」
 カリムさんはシルバーさんを追いかけて走っていった。僕はそんなカリムさんの背中を見つめる。
「言葉を選ぶ必要がありましたね」
 接触の機会は呆気なかった。もうちょっとだけ戯れるつもりで居たのだが、交流の選択肢を間違えたらしい。笑顔を貼り付けたまま小さく嘆息する。
(もう少し油断させる言葉が必要ですね)
 考察を巡らせ考える。無邪気な彼を安心させ、僕の隣に居心地を見出してもらえるような話題や技術を。
(好きじゃなきゃ、触らせないし、触らないのですが)
 牙を持たぬ輩を威嚇するなど造作もない。有象無象を寄せ付けても得はないし、騒がしいのはあまり得意ではない。なのに僕がにぎやかなカリムさんを邪険にしないのは、ひとえに好きな子が寄ってきてくれるのが嬉しいからだ。一緒に過ごせれば嬉しいし、触れてくれれば調子づいてしまう。
(……もっと長く繋いでいるにはどうしたらいいでしょう?)
 この掌は恋しい体温の味を知ってしまった。次はもっと長くその存在を自分の隣に縫い止めたい。
(こんな気持ちにさせてどうしたいんです?)
 僕は消えつつある熱を留めるように掌を握った。

貴方を想う

 たっぷりの布が肩や腕にまとわりついて重い。海の中で着たら泳ぎづらいことこの上ないだろう。
(上品で素敵なローブなんですけどね)
 いささか水や風の抵抗を受けやすいところが難点だが。ついでに飛行術が苦手な人魚の気分まで重くさせるときている。
「ジェイド、緊張してるのか? ほい、箒」
 カリムさんが落ち込む僕を気遣わしげに覗き込む。体を捻ったせいで、両手に持っている花束がザワりと音を立てた。
「なぜこのような伝統があるのでしょうか。考えた人の気が知れません」
「ジェイドが愚痴っぽいなんて珍しいな」
 僕は手を前に組んだまま口をきく。
 穂の部分が豪華な花束になっている、誕生日祝い用の特別な箒。花を選んでくれたのはこちらを見上げてくる片想いの対象だそうだ。シックな色味は彼の中の僕のイメージなのだろうか。落ち着かない。ときめきのまま差出人ごと腕に抱き込みたくなる。
 しかし、いくら彼から花束をもらえるとあっても、その草花が僕を地獄に誘うものなら受け取る気が起きない。このまま時間が過ぎて、飛ばなくてもよくならないかと不毛なことすら考えている。
「よーし、そんなジェイドにはカリム兄様が魔法をかけてやろう!」
 カリムさんが少し低いところでニカッと笑う。貴方は僕の兄じゃないと言い返す前に花束を差し向けられた。風に乗って芳醇な香りがやってくる。
「いい匂いだろ? リラックスできる匂いの花を混ぜてもらった」
「……ええ、確かに安らぐ匂いがします。バラですね?」
「そうだ。持ってみろ」
 渋々、箒を受け取り穂を振るうと甘い匂いが広がる。吸い込むと少しだけ沈んだ気が収まるような気がした。匂いはカリムさんの元にも届いたようで、彼も「いい匂いだ」とうっとり呟く。
「あとさ、内緒で箒にバランス強化の魔法を掛けておいたんだ。高い場所でも背筋を伸ばしていられるように」
「お気遣いありがとうございます」
 カリムさんの気遣いは素直に嬉しい。祝われるのは嫌ではないが、醜態を晒すだけのこのプログラムだけは本当に気乗りがしなかったのだ。
「あとは仕上げだ。ジェイド、手を出して」
「こうですか?」
 言われるがままに空いた手を差し出す。するとカリムさんは僕の手を取って軽く握った。
「うん、冷たくはなってないな。……この花束で空を飛ぶって聞いた時、きっとジェイドは上手く飛べるか不安がるだろうなって思ったんだ」
 僕を包む手は少し熱くて、指先にじんと体温が乗り移っていく。僕はカリムさんの言葉と熱を黙って受け取った。
「せっかくの祝いごとなのに悲しい気持ちになってほしくなかった。だから、この箒の力で少しでも気持ちが軽くなればいいなって」
 カリムさんは気合いを流し込むようにぎゅ、と手に力を込めた。
「カリムさん……」
 恋しい人の名前が口を突く。
 傍から見ればただ励まされているだけの状況だろう。しかし漂う華美な匂いがこの場を情緒的にしていた。僕を見上げてくるカリムさんの眼差しもいつもより慕わしげで、まるで恋人に労われているように錯覚してしまう。
「落ち着いて飛べばきっと大丈夫だから、自信持って……ジェイド?」
 包まれた手を解いて指を絡ませる。密着させた掌は少しだけ湿っぽいが、今更どうしようもない。逸る気持ちも鼓動も全て花のせいにしてしまえばいい。
「カリムさん」
「うん」
「嬉しいです。ありがとうございます」
「自信持てそうか?」
「はい」
「へへ、そっか。よかったよ」
 カリムさんは嬉しそうにはにかんだ。照れた顔にたまらなくなって訊ねる。
「自惚れてしまいそうです。僕はこんなに想われていると。どうしてそこまで僕のことを?」
「いいのか? 知ったら飛べなくなっちまうかも」
 カリムさんはゆっくりと目を細める。……この人は意外と凛々しい表情も作れるのだ。カリムさんの癖に。憎らしくなって手を口許に引き寄せる。爪の先に唇を寄せると、オーバル型の指先がわずかに跳ねた。
「それではパーティーが終わったらゆっくりと聞かせて頂きます」
「望むところだ!」
 先程の甘い空気はどこへやら。色気のない力強さに笑いが出る。どうやらすっかり魔法にかかってしまったようだ。
「今のうちに外出届を出しておいてくださいね。夜通しお話いただくかもしれませんから」
 目を見てそう伝えると、うるりと光が動くのが見えた。

内緒ごと

「ひとつの秘密を共有するってさ、ドキドキしないか?」
 目を細め、息を潜め。まるでこちらを惑わせるように揺れる金のピアス。無邪気な好奇心が僕を誘う。僕は吸い寄せられるようにその耳に触れ、輪郭に掌を寄せた。
「秘密は得意です。僕なら相手にうってつけかと」
「決まりだな」
 そう言って僕らの恋を秘めやかなものにしたのは、僕が十七歳の誕生日を迎えてすぐのことだった。

***

 賢者の島に今年最初の雪が降った。
「一日でだいぶ積もりましたね」
 朝方から降り続く雪はあっという間に学園の敷地を覆い尽くし、今もなおペースを落とさず降り続いている。白い雪が断続的に落ちていく様子は幻想的で、あちこちに匂いのしない花が舞っているようだ。
(少々浮かれすぎですかね)
 NRCは山の上に建っているために気温が低く吹く風も冷たい。しかし皮膚をかすめる冷ややかな風が故郷の水の流れを思い起こさせる。寒い環境は嫌いではない。まして今は雪が音を吸っていつもより雑音が少なく、僕としては快適なシーズンだ。
「カリムさんは喜んでいるでしょうか」
 暑い国出身の恋人はこの雪をどう思うだろう。無邪気なあの人のこと、見慣れない大量の雪にはしゃいで、雪の積もった地面に飛び込んでいきそうだ。
「うう、寒い……」
 昇降口から外を見ていると、真後ろからまさに想い人の声がした。振り向くと、厚着をしたカリムさんが身を縮こまらせていた。
「こういう日は人一倍はしゃぎそうなのに、意外と静かなんですね?」
 嫌そうにしている様子が珍しくて尋ねると、カリムさんはうなりながら呟く。
「去年の最初の頃はすごく楽しかったんだけど、派手に滑ったりずっと寒かったりしてるうちに、もういいかなって……今日だって傘が風で吹き飛んじゃってさ」
 曰く、突風に傘を取られて身体が宙を舞いかけたらしい。その場で踏ん張ったら水溜まりに足を滑らせて派手に転んだそうだ。
「それはさぞ面白い光景だったでしょうね」
「笑うなよ、転んで痛かったんだぜ?」
 僕の秘密の恋人は、よくある物事を面白くして僕を楽しませる才能がある。風に煽られ騒ぐカリムさんと、傍にいたであろう彼の従者の動揺は想像に難くない。痛そうに腰をさする彼には申し訳ないが、僕がその場に居合わせたらもっと笑っていたに違いない。
「待ってても止まないよな。遅くならないうちに戻ろう」
 カリムさんは首をすくめながら言って、屋根の外に踏み出した。
(タイミングよく強風が吹いたりしませんかね)
 僕が思うと、ちょうど良いタイミングで強い北風が吹いた。ついでに屋根の上から水滴が打ちて白い頭部に落ちた。
「寒い、冷たいっ!」
「ぶふっ、そんなにタイミングよく……!」
 カリムさんは律儀に悲鳴を上げる。こういうことが起こるから目が離せないのだ。
「そんなに重装備なのに大袈裟な」
「足が寒いんだよ。あと耳と頭が」
 カリムさんはウールのPコートの上から厚手のマフラーを巻いていた。けれど、頭はターバンのせいでなにも被れなかったようだ。銀の髪に雪が積もり始めている。
「お気の毒なので傘に入れて差し上げましょう」
「助かる!」
 手持ちの傘を開いて差し掛けると、カリムさんは喜んで近寄ってきた。
「傘、大きいんだな」
「傘を忘れたフロイドや大荷物のアズールを入れる事があるので」
「優しい大きさなんだな」
「どうも」
 カリムさんはじんわりと呟く。この人はたまに、わけのわからないことで感動する節があった。言い方がむず痒くて言い返したくなるが、この子に言ったところで効き目はないだろう。
(しかし、いい雰囲気ですね)
 身内を雨から保護していた時は思わなかったが、一つの傘に入るように寄り添って歩いているのでいつもよりカリムさんとの距離が近い。歩くたびに肩と腕が触れそうになっている。彼の歩く音や話し声以外が遠く聞こえるのは、雪や傘のドームのおかげだろうか。胸のあたりの存在しない臓器が暖かくなるのを感じる。
(普段もよく傘に人を入れていますし、この状況を事態を誰からも訝しまれることはないでしょう。このままもう少し楽しみたいです)
 ただでさえ秘密の関係の僕達は、表立って親密にすることは許されない。お茶をしたりお互いの部屋に遊びに行くことはあれど、基本的に周りに怪しまれない程度の頻度を保っている。それが今日、待ち合わせてもいないのに一緒に帰ることができたのだ。機会をふいにしたくない。
(カリムさんの思い付きにも困ったものですね)
 秘密の共有はとても楽しい。普通の交際よりもずっとスリリングで好ましい。しかし、せっかく心を寄せる存在ができたというのに、関りが薄いのは勿体ない。この不可解で奇天烈な生き物をより近くで愛でていたい。
「ジェイドは足も大きいな」
 僕が考え事をしていると、カリムさんがそう指摘した。足のサイズを聞いてきたので答えてやると、やはり大きいと感動された。
「足跡が全然違うぜ」
 後ろを振り返ると、大きさの違う足跡が雪道の上に刻まれていた。
「これだけ体長が違えばそうでしょうね」
「そうだな」
 カリムさんはしみじみ同意した。どこか嬉しそうな様子に気持ちがざわつく。
(カリムさんもこの状況を喜んでいるのでしょうか)
 ならば、仕掛けてみても問題ないかもしれない。僕は脳内の予定帳を開いて適当な用事を見繕った。
「あぁ、いけない」
「どうした?」
 わざとらしく焦った声にカリムさんが顔を上げた。
「植物園の棚の整理をしなくてはいけなかったのを失念していました」
「えっ、今日にか?」
「ええ、年末で他の仕事が立て込んでいて、今日しかできる日がなくて」
「そりゃ早く行った方がいいな! 今日はこれからもっと降るらしいから、オレのことは気にしないで行ってくれ」
 道が植物園に続く曲がり角であったため、カリムさんはすぐさま傘から出ようとした。
「うおっ」
 なので、傘を傾げて進行を妨げた。困惑した表情で見上げてくるカリムさんに笑顔を返すと、彼は少しの考慮ののちに言った。
「手伝ってほしかったのか?」
「その答えでは不正解です……わかるでしょう?」
 彼にだけ聞こえる声で囁くと、カリムさんはふわりと目を細めた。
「もう少しだけ内緒ごとを楽しみましょう」
「そうだな」
 そうして、僕の隣に二回り小さい靴が並んだ。

***

 片づけを終えて寮に戻る頃にはすっかり日も暮れ、気温もぐっと下がっていた。片づけで汗をかいたこともあり、外に出たときに僕ですら寒さを感じたくらいだった。
「お風呂、入っていかれますか?」
 周囲に誰もいないことを確認してから提案すると、カリムさんはひとつだけ頷いた。それから人目をはばかるようにして鏡を越えて、自室に恋人を招き入れる。浴室のバスタブにお湯を貯めている間に身体を清め、ふたりして一緒に湯船に沈んだ。
「ふあぁ~~~………」
「ふう」
 狭い猫足のバスタブの中に、僕はカリムさんを抱え込むようにして座っている。傘を共有していた先ほどより密着率が高い。
「あったかいなー……」
「ええ。今朝打ったところは痛くないですか?」
「心配しすぎだぜ」
 カリムさんは振り向いて笑顔を見せてくる。
「やっぱりドキドキするな。みんなに内緒で恋人になって、こっそりデートしたりイチャイチャしたりするの」
 カリムさんは弾んだ声で言う。同意を返すとさらに楽しそうに頷いた。
「意外でした、貴方がこんな関係を持ちかけるなんて」
「うーん、そうか?」
「隠し事が苦手そうじゃないですか」
「いやぁ、苦手だ! 嘘つけるほど器用じゃないし!」
 カリムさんはこう言うが、驚くべきことに僕達の関係がバレたことはなかった。その理由は実のところ、カリムさんの態度が変わらなかったのが大きい。彼が誰にでも友好的で人懐っこいのが幸いしてか、僕への好意が匂いもしないのだ。同じ秘密を共有する僕が心配になるくらいに。
 バスタブのへりに置いていた腕を湯の中に降ろして薄っぺらな腹を抱く。
「僕への好意ひとつ隠せない、とっても仕方のない貴方を堂々と愛でるつもりでいましたのに」
「ひどい評価だな!」
「騙されていませんよね僕? そうだったら立ち直れません」
「そんなことないって! だったら一緒に風呂になんか入らないよ」
 カリムさんはけらけら笑って僕の頭を撫でた。なんだか悔しくて脇腹を撫でると、ビクン、と肩が揺れる。
「あはははっ、そこだめだって! くすぐったいから!」
「くすぐったい場所は触られ続けていると慣れるそうですよ。弱点を克服しては?」
 暴れる胴体を押さえて腹に触っていると、カリムさんはだんだん大人しくなった。
「なんかこういうの久しぶりだ」
 カリムさんは息を吐きながら僕にもたれかかってくる。そのままズルズルと下に下がると、唐突に脚を僕のそれにくっつけてきた。透明なお湯の下で色の違う脚が並ぶ。
「ジェイドは足が長いんだな。それに大きい」
「さっきも聞きましたよ」
「改めて並べると全然違うって思ってさ。ほら」
 小指の先端が側面の中途半端なところに当たっている。先ほどまで密着していた腰の部分も、少し離れた場所にある。
「……ジェイドが元気でいてくれて嬉しい」
「……唐突ですね」
「なんだろう……雪の道を並んで、寒いなって言いながら歩くだけなのにすごく楽しくってさ」
 伸ばされた手が僕の足の指先に触れる。そのまま落ちるように動いた指が僕の足の甲を撫でた。
「そういう日がずっと続けばいいのにって思ったんだ」
 口にした願いは穏やかなのにどこか湿っぽい。しんしんと降る雪のようなそれは、いつか消えてしまうものを惜しむようだった。
「そんなこと、願えばいくらでもできるでしょう。変な方」
「ほんとだな、あったかくって変になっちまったかも」
 重たい空気に耐えられなくなって上半身を抱きすくめると、カリムさんはくすぐったそうに笑う。
「明日も一緒に帰りましょう。雪がなくても内緒ごとはできますから」
「ごめんな、ありがとう、ジェイド」
 カリムさんは目を閉じ、僕に身を委ねて力を抜いた。

祝福

 六月二十五日、夜十時過ぎ。
 スカラビア寮長、カリム・アルアジームの生誕を祝う宴は、今年度いちの規模となったそうだ。カリムを祝いに来たというという大勢の来客、そしてそれを裁く寮生達の熱気。あちこちで聞こえる歌や踊り、歓談の声。それを見守っていたカリムの横顔は、本当に幸福そうなものだった。
 盛大な宴の時間はあっという間に過ぎ、片づけを終えた寮生達は口々にカリムへ祝いの言葉を贈り、部屋に戻って行った。きっと、今は誰かの部屋で慰労会と二次会をしているのかもしれない。その位の無礼講は許されるだろう。
「今日の宴は特別楽しかった!」
「それは何よりです」
 それならこちらも、ふたりだけの二次会になるのだろうか。そんなことを考えながら、ジェイドは恋人の腕から白いジャケットを抜き取り、ハンガーに吊るした。
「ジャケット着たの、VDC 振りかもしれない」
「普段はカーディガンですものね」
「あ、自分でやるぞ?」
「今日の僕の楽しみですから」
ジェイドは手を伸ばしてくるカリムから、ハンガーを遠ざけた。
なにせ、カリムは今日の主役で、あちこちに引っ張りだこだった。主役なのにじっとしていない主賓は、あちらこちらに顔を出してもみくちゃにされていたのだ。ジェイドはそれを遠目に身ながら出される食事を貪っていた。宴の後の、この特別な時間を楽しみにしながら。
「ここからはジェイドを独り占めだな」
「僕が貴方を独り占めの間違いでは?」
 カリムが外したカマーバンドを受け取りながら、ジェイドはサスペンダーにてこずる背中を見守る。今日はカリムの部屋にそのまま宿泊して、夜を明かすつもりだ。昼間の分もたくさん甘やかしてやるつもりでいる。
「んーや、オレが独り占めなんだ」
 カリムはループタイを緩めながらジェイドに振り向いた。そのまま一歩だけ近づくと、額をジェイドの胸に預けてくる。
「ジェイド、オレのわがまま聞いてくれるか?」
「なんなりと」
 ハンガーを片手に、右手をカリムの肩に添える。
「オレと悪いことしに行こう?」
 顔を上げたカリムの目は、サソリの心臓のように輝いていた。

 夜の水面は静かにたゆたう。ジェイドは長い尾鰭を、感覚を取り戻すように揺らめかせた。
「悪いことと聞いたので、てっきり闇取引でも行うかと思えば……夜中に学校を抜け出すだけだなんて」
 確かに校則を破ることは良くない。規律に厳しいクラスメイトが聞いたら眉間をしかめるだろうが、ジェイドからしたらいつもより小規模な、非常にささやかな悪事だ。
「ちょっと悪いくらいが丁度いいんだよ、こういうことって」
 カリムは訳知り顔で言う。きっと、カリムとしては悪いことなのだろう。何せ彼は、超が付くほどの箱入り息子で、最近まで深夜にカップラーメンすら食べたことがなかったというのだから。
「なぜこんなことを思い付いたのですか?」
「誕生日に、ケイトとリリアからダンスの動画を貰ったんだ。練習していた雰囲気もなかったから、いつ練習したんだ? って聞いたら、部活のない日の放課後に集まって練習してたんだって。
その時の話なんかも聞かせてくれたんだけど……それを聞いたら、オレも羨ましくなっちゃって。今しか出来ないことをしたくなったんだ」
 カリムは自分達を移送した絨毯に迎えを頼み、海にするりと降り立つ。抑え気味のしぶきは、良質な絨毯に掛からずに済んだようだ。
 軽音楽部は際立った実績はないものの、部員同士の仲の良さで有名な部活だ。カリムは個性的な先輩ふたりに特に懐いていて、彼らの話をするときはいつにもまして上機嫌だ。先輩方からしたら、可愛らしくて仕方がないだろうと思う。
 海に肩まで浸かったカリムに後ろから近寄りながら、ジェイドは質問を重ねた。
「相手は僕でよかったのですか?」
 ジェイドはカリムの腰に腕を回しながら尋ねる。
「ジャミルさんやフロイド、シルバーさんも軽音楽部の先輩方も、喜んで付き合ってくれたと思いますよ?」
 言いながら、戯れるように脚に尾鰭を巻き付ける。分かり切った質問は、あえて恋人を困らせるためのものだ。しゅるしゅると、露出した足首に表皮を擦り付けながら答えを待つ。
「選ばないよ。ジェイドがいいから」
「ふふ、光栄です」
「もし、オレが他を選んでたらどうしてたんだ?」
「その方を始末して僕が同伴していましたね」
「はははっ、なら最初からジェイドで正解だな!」
 カリムは抵抗しないまま、ジェイドの上体にもたれる。
「一回、ジェイドとも泳いでみたかったんだ」
 カリムはそう呟くと、うっとりと目を閉じた。
 半年前の冬、幼馴染を助けたいという恋人を、兄弟に託した。フロイドの方が身体能力が優れていたために、あの時の判断に異論はない。だが、少し寂しく思う気持ちがあったのは本当だ。
 同じ気持ちでいてくれたことが嬉しくて、ジェイドは「僕もです」と返す。こういう甘え上手なところが、世渡り上手の秘訣なのだろう。世話好きの、そういう気持ちを上手にくすぐるのだ。
「今日はどこまでいきましょうか」
 カリムを深く抱きしめたまま、ジェイドは問いを投げかける。
「もう少し沖合いに出たいな。校舎が見えなくなるくらい!」
「だいぶ泳ぎますよ?」
 ふたつに分かれたヒレは心許ない。くねる訳でもない足をばたつかせ、泳いでいける範囲など限られている。
「いい。ジェイドが疲れてなかったら、連れていってくれ」
 けれど、そんな愛らしいおねだりをしながら、頬を鎖骨に摺り寄せてくるから。
「ご随意に」
 願いを叶えてやらなくてはと、そう思ってしまうのだ。

「星、綺麗だな!」
 ゆっくり泳ぐジェイドの肩に手を置いて、ゆらゆらと足を動かしていたカリムが歓声を上げた。
「ええ、本当に」
 ジェイドは素直な感想を述べる。丸い月が明るいせいで散り散りになっているが、夜空は十分、星々に彩られている。島の街灯りは遠くなり、照明となっているのは月の光だけだ。それでも十二分に明るい。
「ジェイドは星が好きだったよな?」
「よく覚えていましたね」
「その話を聞いた時、オレも! って思ったから!」
 カリムは興奮気味に話した。
「オレも昔から、絨毯と一緒に夜のドライブに行ってた。雲の上に抜けたり、川の上スレスレを滑ったりしてさ。そのまま星を眺めてたんだ。外で宴した時なんて、象の背中の上に寝転んで、弟達と星を見たりしてて……」
 カリムの手が、ジェイドから離れた。片側の肩に少しだけ体重がかかる。きっと、空に手を伸ばしているのだろう。
「ジェイドが星が好きだって聞いて、オレ達、出会う前に同じ星を見てたかもしれないな、って思ったんだ!」
「それは……どうでしょうね?」
「あれ?」
「北と南では、見える星が違うと言いますから」
「うーん、そっかあ」
 背中の上で、残念そうな声が聞こえる。ジェイドは笑いをかみ殺しながら、身体を半回転させた。
「うわっ!」
 体勢を崩したカリムを受け止める。カリムは海水に顔をつけてしまったようで「しょっぱい」と唸っている。
「すみません、思ったより浮かれているみたいです。貴方が僕を選んでくれたことに」
 ジェイドは泳ぐのをやめると、濡れた髪の毛にキスをした。
「黄道に接する星座はどこでも見られるでしょうから、同じ星は見ていたかもしれません。貴方がロマンチックなことを言うものだから、意地悪を言いました」
喉の奥で疼く強いものを押さえつけて、ジェイドは続ける。先ほどから、愛おしさがこみあげてきてしょうがない。恋人の特別で居られることがこれほど嬉しいことだなんて、カリムに出会うまで知らなかった。
「……確かに、ちょっと恥ずかしいこと言ってたな」
 カリムはむくれて横を向いた。ジェイド愛おしくなって、今度こそ肩を揺らして笑った。
「話題を変えましょうね。……今日はどんなプレゼントを貰ったんですか?」
「答えていいのか?」
「僕が質問しているのでいいです」
 ジェイドはカリムの背中を撫でながら話を促す。
「ん。そっか。……ラギーにな、ペーパークラフトを貰った。砂漠の魔術師が変身したっていうコブラの。マレウスからはヘアバンドで、オルトには絨毯をクリーニングしてもらった。ジャミルにはオレの好きな料理を沢山作ってもらった!」
「それはそれは。たくさん頂きましね」
「ああ。でさ、リリアとケイトからはお祝いの歌を貰ったんだ」
「……さっきのヘヴィメタルはリリアさん達でしたか」
「斬新だろ? バースデーソングのアレンジなんだってさ!」
 カリムは足をパタパタ揺らす。
「他にも、友達みんなからおめでとう、って言われて……そんで今は、ジェイドとこうやって悪いことしてる」
 ふいに、カリムの足の動きが止んだ。ジェイドの腰骨にカリムの足が巻き付く。
「最後の最後まで楽しくて幸せな日だった。オレにはもったいないくらい」
 ジェイドを包むカリムの手足は、そのままぎゅうう、とジェイドを抱きしめてきた。
「ありがとう」
カリムは心からそう呟いた。
 そんなことで喜ぶなんて単純だとか、相変わらずいい子過ぎですねとか、憎まれ口は幾らでも出てくるはずなのに。惚れた弱みはジェイドの牙を、とろりと丸くしてしまったのだろうか。
「僕も、貴方が僕を選んでくれて、悪いことに付き合わせてくださって嬉しいです」
 ジェイドは腕の中の、大切な存在への拘束を強める。
「貴方が僕を選んでくれることがどれほど幸せなことか、きっとわからないとは思いますが……」
「ううん、わかるよ。だってジェイドがオレを選んでくれることも、きっと特別なことだから」
「おや、理解があって助かりますね。ふふふ」
「当然だよ、愛してるからな」
 カリムはゆっくりジェイドの目を見つめ、笑みをほころばせた。
「ジェイド、オレと出会ってくれて、恋人になってくれてありがとう。オレを選んでくれて……本当にありがとうな」
 月に照らされた微笑みに見惚れながら、ジェイドはまろやかな頬を指で撫ぜる。
「僕も、貴方を愛しています。悪いことがしたくなったら、その時はまた僕を選んでください。きっとどこまでも、海の果てまでもお供しますから」
 ゆらり、ゆらり。お互いの心臓の音を聞きながら、ひとりと一匹は波に揺れる。はぐれないようにぎゅっと抱き合いながら、お互いを求めあう。
「お誕生日おめでとうございます、カリムさん。生まれてきてくれて、僕に出会ってくださって、本当にありがとうございます」
 日付の変わり目を告げる鐘の音はまるで、二人を祝福しているようだった。

ひかりあれ

プロローグ
「誕生日プレゼント?」
 尋ねると、少年はターバンの結び目を下に傾げた。少しだけ考えて、にっこり笑って答える。
「メッセージカードがいいな!」

ひかりあれ

 おはようカリム。奇遇だな、登校の時に会うなんて。ジャミルは一緒じゃないのか? ……そうか、今日は別行動なんだな。

 カリム、誕生日おめでとう。お前に出逢えて、友達になれたことを嬉しく思っている。プレゼントにメッセージカードが欲しいと聞いたから、教室に着いたら渡そう。
 ところで、なぜメッセージカードがいいと言ったんだ?
 ……メッセージカード1枚を書く時間? おそらく、一枚十五分程だろうか。その時間、自分のことを思ってくれるのが嬉しいから、か。カリムらしいな。
 自分の祝い事を一緒に祝ってくれることが嬉しいという気持ちは、種族が違っても同じだ。決してバカにはしない。

 教室に着いたぞ。…………驚いているようだな。
 メッセージカードの大きさは指定はなかったはずだ。だから、クラスメイトのみんなと寄せ書きを作ったんだ。みんな、カリムのことを祝福している。

 おめでとう、カリム。お前の未来が幸福に満ち溢れたものになることを祈っている。

 カリム、おはよう。そして誕生日おめでとう。

 そんなに喜ぶかい? たかだかメッセージカードだろう? パーティの時にはプレゼントもあげるから、それまで喜ぶのはとっておきなよ。ケイトもリリア先輩と一緒に何かを練習していたようだから、楽しみにしているといい。
 ところでそれ、もうそんなにカードを貰ったのかい? 片手じゃ持ちきれていないじゃないか。まだ一限も始まっていないというのに、君ときたら相変わらずだね。

 ……ねぇカリム。カリムはいつも、僕やアズールのことをすごいって、もっと頑張らないとって言うよね。けどね、カリム。カリムはもう既に素敵な力を持っているんだよ。こんなにたくさん、カリムのことを思ってくれた生徒がいたんだ。彼らの気持ちを誇りに胸を張るといい。

 改めておめでとう、カリム。放課後を楽しみにしているよ。

 カリムくん、お誕生日おめでとう! 今日の宴、絶対行くッスからね!

 で、オレからもこれ。メッセージカード、ほんとにこんなのが誕プレでいいんスか? オレだったらもっと、ぐーんと豪華なやつ、頼んじゃうッスけど!
 ……そっか、いいんだ。カリムくん、ガツガツしてるタイプじゃないもんね。
 でも、いつもご馳走になってるのに、誕プレがこれだけっていうのもアレだから、あとでとっておきを見せてあげるッスね。

 ねぇカリムくん、オレの隣のコレさ、レオナさんからなんスけど、なに書いてあるかわかんねーっつーか……えっ、わかるの? へぇ、夕焼けの草原の福音、しかも王族が使うやつって……こんな走り書きなのによく読めるッスね。つか、レオナさんこんなところに走り書きにしなくても……まあ、今日の宴には肉食いに顔出すって言ってたから、直接お礼を言ったげて。
 じゃ、また後でね!

 お誕生日おめでとうございます、カリムさん。

 こちら、誕生日プレゼントのモストロラウンジ割引券です。当店にもまたご来店下さいね。ホールスタッフの人事派遣も随時承りますので。

 ……さて、ここからは個人的な話になりますが……改めておめでとうございます。誕生日プレゼントにメッセージカードだけでいいなんて、不思議な方だ。僕ならもっと有効に……まあ、誕生日くらい下世話な話はやめておきましょう。

 お詫びにもうひとつ、僕からとっておきの怪談をお聞かせしましょう。
 近頃、ジェイドとフロイドの部屋から夜な夜な聞きなれない音がするんです。あれは弦楽器と太鼓の音ですね。何かを練習しているようです。怖いでしょう? なにをやらかすつもりなのやら。
 あの邪悪なウツボ共、よほど気が向かないと誰かを喜ばせるために無償で練習したりなどしないのですが……ああ、僕としたことが、普段の腹いせが過ぎました!

 アレらが悪さをするといけないので、今夜の宴は間違いなく伺います。お楽しみに、カリムさん。

 カリム、誕生日おめでとう。

 メッセージカードだけじゃメンツが立たないから、プレゼントを持ってきたわ。アタシの新作の化粧品。カリムの肌質に合わせて調合したの、使ってちょうだい。せっかく見られる立場にいるんだから、磨いて生かさなきゃ損よ。
 ……あとルーク、食堂で詩の朗読はよしなさい。封筒に便箋が詰まってギッチギチじゃない、どんだけ書いたの! ネージュに言いつけるわよ、全く。

 それにしてもすごい量ね、カード。……それだけ、あんたを慕う人がいるってことね。……ファン、って有難いわよね。大事にしなさい。
 アタシはこれから仕事で、残念ながら宴には行けないけど、ルークとエペルが代理で伺うわ。よろしくね。

 良い日を過ごしてね、カリム。おめでとう。

 カリム・アルアジームさん、誕生日おめでとう!

 いつも仲良くしてくれてありがとう。僕からもメッセージカードを書いてきたよ。貰って欲しいな!
 ……ふふ、心拍数が上がった、口角が上昇してるね、喜んでくれて嬉しいよ。

 字が上手? 嬉しいな! 実はね、このカードを書く時に、筆記の機能をつけて欲しいって兄さんにお願いしたんだ。だってメッセージカードでしょう? せっかくだから手書きで書きたかったんだ!
 これは試し書きのために書いたカードなんだけど……カリム氏gzだって。gzってね、おめでとうって意味みたい。兄さんがオンラインゲームをする時に使ってるからわかるんだ。これもこっそりあげるね!

 僕の誕生日はもう少し先なのに、新しいプレゼントを貰った気分だよ。カリム・アルアジームさん、ありがとう!

 カリム寮長、お誕生日おめでとうございます!
 これ、寮生の分です。部屋に運んでおきますから後でゆっくり読んでくださいね。
 見てください、宴の準備、僕達だけでもスムーズに出来るようになりました。副寮長はご自宅からの贈り物の処理で手一杯だって聞いて、段取りや発注も頑張ったんですよ。きっと、寮長が宴を提案しなければ、こんな経験できなかったでしょうね。
 最初はちょっと面倒だったけど、周りを見て自分から動くのって、いい訓練になるんですね。この前も、準備の手際がいいって先生に褒められました。
 寮長……僕、寮長が寮長で良かったって思ってます。ちょっと頼りないところとかもあるけど、優しくて気のいい寮長だから、ついて行きたいって思えたんです。
 生まれてきてくれて、俺達の寮長になってくれて、ありがとうございます。素敵な宴にしましょうね。

 アジーム、今日は招待くれて感謝する。……本当に呼んでくれたのだな。
 今日は誕生日だそうじゃないか、誕生日おめでとう。
 プレゼントはカードがいいとリリアに聞いた。これで良いだろうか? ……フフフ、喜んでいるな。無垢な子供のようだ。シルバーやリリアが気に入るだけあるな。ついでにこれも付けておけ。お前といえばヘアバンドだと思い、準備した。
 ……無垢なるは、得難いことだ。長く生きて、苦しむことが多ければ尚更……僕も王族の一端、お前の国や家の事も少しは知っているつもりだ。
 だが……ここで手前勝手に「茨の谷に来い」と言うのは傲慢なのだろう。お前はお前の意思で嫡子をしている。それを外野が憐れんだり、憤ったりするのは、少し鬱陶しくもある。……上に立つもののことは、上に立つものにしかわからない。
 人間の世に嫌気が差したら来るといい。茨の谷は歓迎しよう。
 今日は厄介になるぞ、アジーム。僕はあちらでアイスクリームを頂いてくる。

 そら、オクタヴィネルのリーチ達がなにか始めるようだぞ。

 ラッコちゃん、誕生日おめでと。はいこれカード。
 演奏聞いてくれた? 上手いでしょ、けっこー練習した。コレさ、ラッコちゃんがくれた楽器。ジェイドと相談して、プレゼントは演奏にしようって決めて練習したんだよね。久々にマジんなったから腕疲れたァ……ちょっと、ラッコちゃん主賓でしょ? マッサージしなくていいから座ってアイス食ってなよ。
 フーン、今までのどの宴よりも幸せって? だよね、だってオレ達がこんなに盛り上げたんだもん。なかなかここまでしないよ? 出血大サービス、ってやつ。
お返ししたいんならさ、踊って。オレ達もう一曲練習したの。それで踊ってよ。あのしゃらしゃらヒラヒラする踊り。
ヘンなリズムだけど、嫌いじゃないよ。また一緒に踊ろうね、ラッコちゃん。

 お疲れ様でした、カリムさん。
 やはり習われていただけあって踊りがお上手ですね。その上お歌まで歌われるとは。人魚も歌とは縁が深いですが、なるほど。音楽は種族を超えますね。観客だけじゃなく、僕まで手が止まりそうになりました。ふふ。
 曲の演奏をするために久々に楽器を弾きましたが、陸の楽器もなかなかに興味深かったです。この楽器、僕らの昔話を聞いて誂えて下さったのでしょう? ホスピタリティに感心致します。これも、大商家の嫡男たる所以でしょうか。
 ねぇ、覚えていてください、カリムさん。僕達は決して、貴方がお金持ちだからこんなことをした訳じゃないのです。僕もフロイドも、楽しいからしたのです。フロイドや僕、皆さんの好意、真っ直ぐに受け取ってくださいね。
 さて、僕達は一度楽器を仕舞ってきますね。後で改めてお伺いしますから、メッセージカードはその時にお渡しします。

 こちらは終わったぞ。
 これが直送された贈り物のリストだ。アジーム家から手伝いを寄越して貰って振り分けした。差出人、中身、おおよその金額、メッセージの内容……あとトラップの有無も指示通り書いておいた。
 今年は文化祭の影響が大きかったようだ。昨年より学園にプレゼントを寄越す輩が多かった。おかげで処理に一日がかりだ。はぁ、疲れた。
 ……礼を言われるためにやったわけじゃない。従者としての仕事のうちだ。やめろ。
 ……なあ、なんでメッセージカードなんだ?
 貰った食べ物は受け付けない、プレゼントは直接受け取れないどころか、検問が敷かれてる。誰からでも直接受け取れるからか? ならお前はやっぱり甘ちゃんだ。そのカードに毒や呪いがあったらどうする。
 まあ……いい。そこに箱があるだろ。その抱えきれないほど貰ったメッセージカードを入れるといい。

 ……そう、だな。
 そこまで綺麗な理由じゃない、かもしれない。
 理由はみっつある。まず、今はちょうどテスト週間だし、みんなに負担なくお願いできるならこれかな、って思った。ふたつ、気持ちが欲しかったんだ。心からのお祝い、言って欲しかった。メッセージカードって、嫌いな奴にはあまり書かないだろ? 仕事とかの関わりがある時以外。最後、これをもっていれば、ずっと強くなれる気がしたんだ。

 ジャミル、ひとりが友達にメッセージカードを書く時間はどれぐらいだ? メッセージを考えながら書いて、大体15分くらいか。そうだな、オレもお礼のカードを書く時はそのくらいで書くよ。
 ここに集まったカードは、ちゃんと数えてないけど80通くらいかな。クラスのみんなからは寄せ書きにしてもらったから、プラス数10通。合わせて100通と考えようか。
 15分×100通で、1500分。その分、オレはみんなから貴重な時間を、気持ちを貰ったんだ。メッセージカードを書いてる時って、その人のことを考えるものだろ。
 まさか、こんなに貰えると思ってなかったけどな! ちょっと驚いてるよ、あっはっは!

 こんなこと、今しか出来ないから。この学校に通ってたって証が欲しかった。
 ジャミル。オレ、長生きしてよかった。頑張ってきてよかった。途中で諦めて、投げ出してしまわなくてよかったよ。
 だっていま、こんなに幸せなんだ。

エピローグ
 12時の鐘が鳴った。
 スカラビア寮は宴の余韻を残したまま、全てが眠りについていた。いや、ひとりだけ、例外があった。
 初夏の夜風が晒された肌を撫でつける。手触りの良い絨毯に乗り、濃紺の星雲を駆ける者があった。
「綺麗だなぁ」
 少年は無垢のままの短い髪を踊らせながら呟く。
 前を見ていても、視界が滲んで、頭が痛くて起きていられない。絨毯の上に仰向けに転がり、使い物にならない目をそっと覆った。その燃える瞳から溢れた涙を拭う者は誰もいなかった。いなかったからこそ、少年は素直に泣けたのかもしれない。
「生きててよかった」
 少年の呟きは、はるか遠く、空の先へと吸い込まれていく。絨毯はその一角を今日に持ち上げ、少年の片足に絡めた
「ほんとうに、生きてきてよかった」
 幾年、幾百の時をこえ、星々は彼のために瞬く。
 満天の星空は、彼の生を祝福する。
 少年はその日、確かに世界でいちばん幸福だった。

拍手お礼(2021/11/07受領分)

はじめましてこんにちは、拍手ありがとうございます🙇‍♀️えへへへ、拙作を読んでいただけて光栄です💕

海の商人は〜について、たくさん感想を頂きましてありがとうございます🙇‍♀️刺さったようで何よりです〜✨
このお話は「私が思うジェイカリの基本を詰めよう!」と思って書いた記憶があります。なので、コメ主様と基礎を共有できて嬉しいです🥰 内容もコメ主様が仰ったこと(☀️の博愛主義、思い切りの良さ、🐙との関係性、🐬の自信満々男ムーブ、🐬☀️の線引きつつ地味に愛情深めていく感じ)をまさに意識していました。
こちらこそ、素敵な感想をありがとうございます🙇‍♀️

あっ、アンソロの方もありがとうございます😊💕べったーのえろいのも楽しんでもらえて何よりです😇😇😇
お気づきになられましたか……耳責めの良さに……耳責めはいいぞ、なにせ脳みそを一番近くでなぶれるんじゃ……👍
☀️はどこもかしこも敏感なので、🐬のいい声でえっちになってしまわれればいい……👂

ご心配頂きありがとうございます🙇‍♀️普段からお見守りいただけているようで恐縮です。
ほんとに寒くなって来ましたねー😵さんぐうは既に暖房に頼りっぱなしです。暖かくしてます。
コメ主様も風邪引かないようにご自愛くださいね、ありがとうございました😊

感想お礼(2021/05/31受領分)

送り主様へ(フォームでは返事できなかったので、こちらにてお返事失礼します)
こんばんは!日々お仕事お疲れ様です🙇‍♀️
お忙しい中、拙作に感想を送ってくださってありがとうございます🙇‍♀️ やだ〜嬉しい〜💕

読み返して下さったと……🤭 感無量……幸せだな私の本……🤭
感想を読んでいて思ったのですが、要旨を纏めるのがとてもお上手ですね……
ジェイカリはふたりとも人間関係の線引きが上手であるがゆえ、恋をしたら戸惑いの連続かもしれないなぁと思いつつ、このようなお話になりました💕 可愛いって言って貰えて嬉しいです☺️

あ〜〜そこ(カリムくんの笑顔)分かってもらえて嬉しいです🌸 心を許した愛おしい相手に見せる、オレは幸せ者だ、って顔です。ジェイドさんに褒められたり愛されたりして、嬉しくて仕方なかったのやも。

ふおおお!いつも見てくださってるんですね、ありがとうございます!またなにか書きますね!
感想、読みづらいどころか、凄く文章がお上手だなぁと思っておりました……🤭✨

改めて、素敵な感想をいただきましてありがとうございました! 季節の変わり目ですので、お身体ご自愛くださいね☀️