更新履歴

海の商人はクピドとなった

 ことの発端は、同期寮長であるカリムがアズールに頼み事をしてきたことだった。
『恋を忘れさせてほしいんだ』
 カリムはアズールに困った顔をしてそう頼んできた。
「叶えるではなく、忘れさせる、ですか」
 いつも前向きな貴方がらしくない、とは言えなかった。かの人の目がそれだけ真剣だったからだ。
 アズールはソファに背を預け、問題解決のために思考に耽る。
「……恋を忘れるには『新しい恋をするのが一番』とは聞きますが……」
 クライアントが求めていることは『今の恋を忘れる』ことだ。簡単なのは、その周辺の、恋をした相手との記憶をすっぽり失わせることだ。しかし、記憶の操作はリスクが高い。そうなると、合理的な手段は上書きだろう。一応、手立てはあるにはあるのだ。
(カリムさんに新しい恋をする心算はないでしょうから……あくまでこれは処置です)
 その気がない人に心変わりはさせられないというのは不文律だ。何事にも永遠はない。だから、あくまで蓋をするだけ。一時的にでも気持ちを上書きして、慈悲深い嘘が解ける頃に、辛い記憶が少しでも後ろに下がっていればいい。いいのだが。
(……忘れられる訳がないでしょう、そう簡単には)
 アズールは目を閉じる。それは遠い昔のこと、真夜中に古い写真を見つめて頬杖をついていた母親の横顔。記憶の中に欠片ばかり残された温情が、アズールをらしくなく感傷的にさせていた。
「どうしたものですかね」
 アズールがあれこれ考えていると、重たいドアをノックする音が聞こえた。
「入ってください」
「失礼します」
 アズールが返事をすると、副寮長であるジェイドがVIPルームに入ってきた。難しい顔をするアズールの表情を見て、面白いものを見つけたという顔をしている。
「いかがでしたか?」
「あまり芳しくありませんね。少し、ジェイドの意見を聞きたいのですが」
 アズールはジェイドにカリムとの契約のことを説明した。
「カリムさんが恋をしているのですか?」
 話を聞いたジェイドは、色違いの両の眼をパチリと見開いた。
「そのようです」
「……近頃はよくカリムさんの傍にいましたが、全く気が付きませんでした」
 ジェイドは真顔でそう零す。確かにあの冬季休暇の後、2人は一緒にいることが増えていた。他人に関心のないはずのジェイドが、時間を作ってはカリムの元に通っていたのを思い出す。
「珍しいですね、お前が見抜けないなんて」
 アズールが顔を上げると、ジェイドは唇を引き結んで契約書を見つめていた。
 ジェイドは一度、カリムに魔法を破られたことがある。今回も、身近な相手の心を見抜けなかったことが悔しかったのだろう。アズールはそう結論付けて話を戻した。
「とにかく、なんとかして恋を忘れさせる方法を考えなければならないんです」
「そうですね……」
 ジェイドは少し考えたのち、ひとつ頷いてアズールに向き直った。
「アズール。この件、僕に任せてくれませんか?」
 ジェイドはにっこりと口角を上げた。
「わかりました。この件に関してはお前が適任でしょう。うまくやってくださいね?」
 アズールとしても、カリムと仲のいいジェイドが関わった方が都合がいい。
 アズールはジェイドにカリムとの契約書を渡すと、別の案件に取り掛かった。

 数日後、カリムはジェイドに連れられてラウンジにやってきた。
「アズール、今日はありがとうな!」
 アズールの向かい側のソファに座り、カリムは快活に笑った。その様子は、とても苦しい恋に身をやつすようには見えない。
「カリムさんが恋をされていたとは驚きです」
 ジェイドが微笑むと、カリムは一瞬身を硬くした。そして居心地悪そうに目を逸らす。
「……うん、一緒に過ごすうちに好きになっちまったみたいだ」
 カリムは伏せていた目を上げ、まっすぐにアズール達を見る。
「幸せなのに苦しくて、でも一緒に居られるだけですごく嬉しいんだ。こんな気持ち初めてで、どうしたらいいか分かんなくてさ。卒業したらオレは家に帰らないといけないから、せめて今は友達としてそいつと一緒に居たいんだ。だから、この気持ちが相手に迷惑かける前に無くしちゃうことにした」
「……カリムさんなりに考えた結果、というわけですね」
 アズールは相槌を打つ。今回のことも、大商家の跡取りとして考え抜いた結果なのだろう。アズールは同じ商人として、カリムの覚悟を受け止めることにした。
「お任せ下さい。海の商人として、精一杯協力させて頂きますよ!」
「アズールは本当に頼りになるなぁ、ありがとう!」
「ところでこれは興味本位なのですが……相手はどなただったんですか?」
「えっ……そ、それは言えない!」
 ジェイドの質問にカリムが慌てて返す。
「そうですか、残念です。……まあ、すぐに忘れさせてあげますが」
 アズールが背後に立つジェイドを振り返る。後半の言葉がよく聞き取れなかったが、ひとまず話を進めることにした。
「ジェイド、では手筈通りに」
「かしこまりました」
 ジェイドはそう言うと、机に置いていた薬瓶を手に取った。
「これは所謂惚れ薬のひとつです。一定量を摂取した後、初めて見たものを一時的に好きになります」
「新しく、好きになるのか?」
 カリムが不安そうに首を傾げる。
「ええ。ただ、少し特殊なものでして。恋に落ちるのは生物を見た時のみ。無機物を見た際は特に恋をすることなく、その恋心が無機物の中に吸い込まれます」
「そんな薬があるのか!」
「その昔、人間に一目惚れをした人魚が、苦しい恋を忘れるために飲んだと言われています」
 ジェイドは薬瓶の蓋を開ける。本当によく、そんなものを見つけてきたものだ。ジェイドからこの薬を教えられた時、アズールは悔しがりつつも感心してしまった。
「調合はジャミルさんにお願いしましたので、安心してください」
 ジェイドは薬瓶を差し出した。カリムは瓶を受け取ると、目を閉じて一気に中身を煽る。こくん、と喉仏が上下した。
「よし、あとはなにかものを見ればいいんだな!」
「こちらに用意してあります。ちょっと失礼します」
 ジェイドはカリムに手を伸ばし、頭の両脇に掌を添えた。少しだけ上を向かせ、自分の方に顔を向けさせる。
「ん?」
 アズールはジェイドの行動に首を傾げた。打ち合わせでは、小さな巻き貝を見せるはずだったのだが、このままだと最初に目にするのはジェイドの顔だ。そうなると、カリムは新たにジェイドに恋をしてしまうことになる。
(契約不履行にはなりませんが……カリムさんが片思いに苦しむ事実は変わらないのでは?)
 アズールが止めるべきか考えているうちに、ジェイドはカリムに合図を出した。
「さあ、目を開けてください」
 カリムがぱちっと瞼を上げた。眼前の男の顔を見て、ビックリして飛び上がる。
「えっ、な!! なんで、なんで……?」
 戸惑うカリムの目の端でパチパチ、と赤い光が飛び散る。
「上書き完了、ですね。騙すような真似をしてすみません。僕もこんなに誰かを求めたのは初めてでしたので」
 ジェイドがカリムの隣に腰掛けた。
「貴方といると驚くことばかりで、いつもの僕では居られなくなる。でも、貴方の隣にいることが幸せで仕方ないんです」
 ジェイドはしっとりとカリムの頬を撫でる。カリムは恥ずかしそうに顔を横に逸らした。それに気を良くしたジェイドが続けた。
「一時的な気持ちでもいいです。その間に、本物にしてしまえばいいのだから。仮初でもいい、どうか貴方の心を僕に預けてください 」
 カリムはおずおず、とジェイドに赤い目を向けた。
「ええと……ごめん、それは無理だ……」
「えっ」
「オレが好きなのは、最初から同じ人だから……」
 ジェイドはきょとんとした顔で固まった。カリムはジェイドの目を上目遣いで見る。
「好きなんだ……ジェイドのことが……」
「ええっ……」
「……そういう事でしたか……」
 アズールは脱力した。どうやらこのふたり、両片思いというやつだったらしい。そしてアズールは知らないうちに彼らのキューピットになってしまっていたのだ。心配して損した。アズールはやれやれ、と首を竦める。
(……まあ、相手がジェイドなら、障害すらも楽しみそうではありますが)
 気持ちが通じ合った手前、この幼馴染がそう簡単にカリムを手放すとは思えない。ジェイドなら、カリムのいう迷惑もあっさり突破してしまいそうな気さえする。
(ああこれ、僕はお邪魔ですね)
 ふたりの間にはすでに甘酸っぱい空気が流れ始めている。アズールは席を立ち、見つめ合うふたりに声をかけた。
「僕は慈悲深いので、契約は白紙で結構です。あとはふたりでなんとかしてください。一時間後には次のお客様がくるので、それまでに退去してくださいね」
 そう言いおいて、アズールはVIPルームを後にした。

マスカテルと恋情

 その日、ジェイド・リーチは中庭の一角に陣取り、設置したテーブルにクロスを広げていた。少し見上げると、中庭は広葉樹が色づき、冷たくなってきた風が秋の深まりを告げている。
「もう少しで来られるでしょうか」
 ジェイドが椅子の設置を終え、陶磁器を並べる。モストロ・ラウンジで実際に使用している茶器だ。白い肌に、青い装飾が優美である。
 準備を終えてしまうと、ジェイドは椅子に腰かけて、そわそわと待ち合わせの相手を待った。
「ジェイド、待たせたな!」
程なくして、待ち合わせの相手が現れた。カリム・アルアジーム。ジェイドの同学年の生徒で、スカラビア寮の寮長。ジェイド個人としては、ひそかに想いを寄せる相手でもある。
「お時間頂きありがとうございます、カリムさん」
「なんてことないさ! ジェイドもテーブルとカップ、ありがとう」
 カリムは鞄から四角い缶を取り出した。
「ダージリンでよかったよな?」
「ええ、ありがとうございます」
「持ってるやつで一番いいのを持ってきた。夏摘み、いい香りだろ?」
 カリムが持ってきたのは紅茶の茶葉だった。缶の蓋を開け、ジェイドの鼻に近づける。無邪気に近づいた体温に、心臓がドクリと一度跳ねた。
「……本当に香りがいい」
 気持ちを誤魔化すように茶葉の匂いを吸い込む。緩く口角を上げてみせると、カリムは満足そうに微笑んだ。
「よし、早速やっていこう! ケトルはあるか?」
「こちらに」
 ジェイドが銀のケトルを差し出した。
「ちょっと水道から水を汲んでくる!」
 カリムは白いカーディガンをふわりと揺らして校舎に向かった。
「本当に、よくしていただけるのですね」
 ジェイドは紅茶の缶を手に取り微笑んだ。

♦♦♦

 事の始まりは、ジェイドがカリムに『紅茶の淹れ方を教えてほしい』と頼んだことだった。
「いいけど……オレでいいのか?」
 カリムは突然の申し出に驚いて赤い目を開く。ジェイドは頷いた。
「以前、熱砂の国の紅茶を淹れてもらったことがあったでしょう? その時のお茶は……甘さはさておき、香りがよく渋みも少ない、非常に上手に淹れられていました」
「そうか? 喜んでもらえて嬉しいぞ! 今日も飲んでくか?」
「ああ、お気持ちだけで結構です」
 すかさず甘いお茶を準備しようとするカリムを手で制する。
「もちろんタダでとは言いません。努力して習得された知識でしょうから、なにか対価をお支払いします」
「え、要らないぞ?」
「いえ、そういうわけにはいきません」
「ただお茶を淹れるだけだろ? 気にすんなって」
 ジェイドはふむ、と口元に手をやる。今回ばかりは見返りを断られては困るのだ。狙った結果を得るのには、もう一歩頑張らなくてはならない。ジェイドは根気強く続けた。
「依頼しておいてなんですが、誰かに借りを作ったままなのは落ち着かなくて……交換条件にしてもらえると助かるのですが」
「ううん、そうか。交換条件かあ」
 正直借りの辺りは嘘だが、契約を円滑に進める為だ。多少の方便は御容赦願おう。
 ジェイドは唸るカリムに追撃する。
「逆に、僕の知っていることを教えるなどはいかがでしょうか?」
「おお、それは助かるな。ジェイドの得意科目は何だ?」
「魔法薬学ですね」
 カリムが目を輝かせた。
「じゃあ、魔法薬学の勉強をオレに教えてくれ!」
 いまいち細かいことは苦手だ、とカリムは眉根を寄せて大げさに嘆く。リリアのように可愛らしい見た目ではないものの、豊かな表情は愛嬌を感じさせた。
「では、紅茶の淹れ方を教える期間中、魔法薬学の勉強を教える……ということでどうでしょう?」
「おう、いいぜ!」
 カリムは元気よく頷いた。

♦♦♦

 ジェイドが当時を思い出していると、カリムが校舎から帰ってきた。
「ありがとうございます」
「いいっていいって。次はこれを沸かそう。任せてもいいか?」
「お任せください」
 ジェイドがマジカルペンをケトルに差し向ける。するとケトルが中空に浮き、軽い音を立てて底に火が点った。
「こんな細かいこと、よくできるなあ」
「細かいことは得意なんです」
「すごいなあ」
 ジェイドはカリムの称賛に気を良くする。
「お湯が沸くまでもう少々お待ちください。どうぞ、座って楽にしていてください」
 カリムは礼を言って椅子に座った。その隙にジェイドは少しだけ火の勢いを緩めた。
(すぐお湯が沸いてしまってはもったいないですから)
 ジェイドは魔法に意識を向けながら、カリムに尋ねる。
「以前、お茶をよく飲むと言っておられましたが、熱砂の国の淹れ方以外も分かるんですか?」
 少しからかった言い方をするジェイドに、カリムはあっけらかんと返す。
「分かるぜ。自国の伝統って言っても、お客さんによっては淹れ方を変えるからな」
「おや、変えるんですか?」
「おう。誰にでも好みはあるだろ? 初対面の人だと難しいけど、よく会うお客さんなら好みに合わせて出してる。持病とかで、甘いものが摂れない人もいるしな」
「そうでしたか」
 ジェイドはカリムの淹れたお茶を飲んだ時のことを思い出した。あの歯が溶けるような甘さは今でも鮮明に思い出せる。
「僕に出したお茶があんなに甘かったのは……」
「それは、うちの国の伝統を知ってもらいたかったし、ジェイドに甘いものを楽しんでもらいたくてな!」
 カリムはにっこり笑う。その顔は嘘をついていない。純度の高い善意に、ジェイドはそっと微笑みを返した。
「でも、今日はアレンジなしで淹れる。この茶葉はストレートが一番美味いからな」
 どうやら今回は譲ってくれるらしい。ジェイドは内心、ほっと胸を撫で下ろした。
「カリムさんのご実家でも、茶葉を取り扱っているんですか?」
「そうだ。例えばこれは、うちの古い傘下さんが扱ってるやつなんだ」
 カリムは缶を持ち上げた。壁面のラベルに微笑みかける。
「ここの社長さんには昔っからよくしてもらってるんだ。新茶が出る度に茶葉のサンプルを送ってもらってる」
「その度に試飲を?」
「一年の楽しみだからな」
 カリムはからりと笑った。
「そういえば、ジェイドの実家はどんな仕事をしているんだ?」
「うちも商家です。カリムさんと同じく」
「そうだったのか! どんな品を扱ってるんだ?」
「手広くいろいろと」
 本当は口に出せないようなこともしているが、そこはあえて伏せておくことにした。
 しばらく話していると、ケトルが音を立て始めた。
「そろそろ茶器をあっためよう」
 カリムは布巾を手に持った。ジェイドはケトルの火を消し、持ち手をカリムの方に向ける。カリムは茶器にお湯を少し注ぐと、ケトルを宙に戻した。
「器があったまったらお湯を捨てて、茶葉はこのくらい。葉っぱが大きいから、気持ち少なめでいいぜ」
 細かいことは苦手という割に指示が細やかだ。
「お詳しいのですね」
「座学はあんまりだけど、こっちはできるみたいだ。あっはっは!」
 茶葉の準備をしている間に、ケトルは再び音を立て始める。
 カリムが再度ケトルを手に取ると、ジェイドは手早く机に置いた砂時計をひっくり返し、映像記録の魔法を発動させた。
「お願いします」
 ジェイドの合図を聞いたカリムが、沸騰したてのお湯をポットに注いだ。
「勉強熱心だな」
「ええ、実践で教えてもらえるのでしたら、得られるものは得ないと」
 カリムはお茶の淹れ方を感覚で覚えているという。他人が感覚で覚えているものを、習得するのは至難の業だ。きちんと覚えるために、技術を解析する必要がある。
 ……あとで個人的に鑑賞する、という理由もあるが。
「しかし、練習用にはもったいないくらい、いいお茶ですね」
ジェイドはすん、と匂いを吸い込む。湯気と一緒に上がる匂いだけで、茶葉が上等のものであると物語っている。
「練習だからこそいいものを使うんだ。いいものを知っておいて、練習でそれに近づけていけばいい……父ちゃんの受け売りなんだけどさ」
 カリムはいたずらっぽく目を細める。
「それに、ジェイドなら良さがわかるかと思って持ってきたんだ。喜んでくれてよかった」
 カリムは屈託なく笑う。あまりのキラーワードっぷりに、ジェイドは手元を狂わせそうになった。キリのいいところで一度録画を止める。
(これが無意識だというのだから恐ろしい)
 カリムは相手と距離を詰めるのが上手いのだ。それも無意識のうちに。更に意外な面倒見の良さも相まって、カリムに気を許す者は多い。スカラビアの寮生は特にそれが顕著だった。
「スカラビア寮生達が、カリムさんを慕う理由がわかります」
「ん?」
「噂で聞きました。カリムさんが、夜通しスカラビア寮生の特訓に付き合っていた、と」
「あー、あいつかな。随分苦戦してるみたいだったから、声かけちまったんだ」
 カリムはテーブルに頬杖をついた。親が子を慈しむような顔をする。
「コツを掴んだらすぐ上手になったから、元々素質はあったんだと思うぜ」
「それもありますが、声をかけてしまうのがカリムさんらしいなと……ご自身の寮生のことを大事になされているのですね」
「ありがとう。リドルやアズールほどいい寮長じゃないかもしれないけど、これくらいはな。あ、できたみたいだぜ」
 カリムが椅子から立ち上がり、コゼーを取った。ジェイドは動画を撮りながら、カリムの手の動きを観察する。紅茶は丁寧な動作でカップに注がれ、オレンジ色の液体が白い陶器を埋めた。
「上出来だな」
 カリムはそう呟くと、ジェイドの前にカップをサーブした。
「冷めないうちに飲んでくれ!」
「いただきます」
 ジェイドはカップを持ち上げる。鼻で芳香を楽しむと、小さく口に含んだ。
「……おお……」
 ジェイドは色の異なる目を開く。口をついた感嘆詞に、カリムが笑みを深めた。
「うまいか?」
「はい、とても」
 カリムは自分の茶を持って椅子に座った。そのまま、じっくり紅茶を味わうジェイドを静かに待つ。
「しっかり抽出できているのに、渋みがなくて飲みやすい……非常に勉強になります」
「そうか、よかった! おかわりもあるからな」
 カリムは紅茶に口をつけ、満足げに頷いた。
「そういえば、ジェイドはなんで紅茶を習いたかったんだ?」
 カリムがジェイドに尋ねる。
「そうですね……趣味、もありますが。僕、給仕の仕事をしているでしょう?」
 モストロ・ラウンジはカフェであり、提供する飲み物にも拘っている。特にジェイドが紅茶好きということもあり、紅茶には力を入れていた。
「せっかくならばお客様に喜んでもらいたいですし、技術の向上を図れればと」
 ジェイドの返答に、カリムは感心したようにため息をついた。
「ジェイドは頑張り屋さんだなあ」
「恐れ入ります。あと、陸の紅茶文化に興味があるので、詳しい方にお聞きしたいと思っていたのです」
「陸の……ってことは、珊瑚の海にも紅茶があるのか?」
 ジェイドは頷いた。
「ええ、あります」
「あるのか……」
 カリムがぽかんと口をあけた。素直な反応が可愛くて、ジェイドはふふ、と笑った。
「でも、海の中でお湯は湧かせないよな?」
「ええ、海に火はありませんから」
「海の中に置いておいても、茶葉はふやけないのか?」
「海では基本的に液体の状態で輸入されます。液体を魔法で固めているので味も分かります。オリーブオイルや調味料も同じ方法で保存されていますよ……ほら」
 ジェイドがカップに魔力を込める。そのまま持ち手を傾けると、液体はカップの中でとろりと流れた。
「蜂蜜みたいだ。奥が深いな……」
 カリムが神妙に頷く。
「海の世界では日常茶飯事です。このあたりは、アズールに聞くと詳しいですよ」
 ジェイドはカップを元に戻し、魔法を解いた。
「僕からしたら、陸の紅茶の方が奥が深いです。砂糖や果汁を入れたり、茶葉を菓子の中に混ぜ込んだりするでしょう? 地域によって飲み方も様々ですし」
「みんな、住む環境が違うからな。海もそういうことか」
 ジェイドは残りの紅茶を飲み干した。
「海でも紅茶は嗜好品で、同年代でお話しできる方は少なくて。カリムさんとこうしてお話ができて楽しいです」
「そうなんだな」
 カリムはにっこり笑った。
「オレでよかったら、いくらでも話し相手になるぜ!」
「ありがとうございます」
(……この素直さ、少し心配になりますね)
 ジェイドは心の中で苦笑いする。
 ジェイドにとって、趣味を分かち合える者がいなくても特に問題はない。自分が好きなものは好き、好きを極めるのに他人なんて関係ない。
(こう言えば、カリムさんは僕を気にかけてくれるでしょう?)

♦♦♦

 ジェイドがカリムへの恋心を自覚したのは、フロイドがカリムを気に入ってから少し後のことだった。
 人魚である自分達に物怖じせず、あのフロイドを巻き込んで宴を成功させた。以来、兄弟はカリムに一目置き、つるむようになった。
 フロイドが気に入る人間がどんなものかと思って見ていると、明るく大雑把な物腰の割に、所作が洗練されていることに気付く。周囲への気配りも、一朝一夕では身につかないものだ。
(面白い人間もいるものだ)
 ジェイドはカリムをさらに観察した。フロイドの話と自分の見識を混ぜ、考察する。人間への観察眼や毒に対する知識も、奪い奪われる世界で生きてきた者でないとわからなかっただろう。
 カリムは決して守られるだけの弱者ではない。
ジェイドはそうして、次第にカリムにのめりこんでいった。そして、彼の優しさが多くの苦労の末に成り立っていると悟ったときには、すでに恋に落ちていた。
 恋を自覚した後、あれこれとカリムに近づこうとしてみたが、なかなかうまくいかなかった。常に隣に彼の従者がいるからだ。得体の知れない敵として警戒され、気づけばうまく躱されてしまっている。
(カリムさんの気を引くにはどうすればいいだろう)
 傍に居られる理由が欲しい。できればカリムに利のある風にして、ジャミルに自ら説明してもらえるような。
 頭を悩ませていた時、スカラビア寮の噂を聞いたのだ。
(これは好都合ですね)
 お人好しの彼は、困っている者を放っておかない。それが人間でも妖精でも、関係なく手を差し伸べる。
(それを利用して、僕も懐に入れてもらおう)
 そうして、ジェイドはカリムを独り占めする権利を勝ち取った。

♦♦♦

 2人でティーポットを空にする頃には、少しだけ日が陰り、秋風が寒さを連れてくる時間になっていた。
「紅茶、上達するといいな」
 カリムはジェイドに慈愛の目を向ける。それは先ほど寮生を思っていた時と同じ、優しい眼差しだった。
「努力します」
 ジェイドはそれに人好きのする笑みで答える。
(今は庇護対象でもいい。もう少し、可愛いふりをしていましょう)
 きっと、「上達する」のはしばらく先の話になるだろう。陸の紅茶は種類が豊富だし、魔法薬学の手ほどきもしなければならない。その間に、じわじわこちらを意識させよう。
 せっかくの好機を逃す自分ではない。これでも追いかけっこは得意な方なのだ。
「もう暫くお付き合いお願いしますね、先生?」
 人魚の恋はそのくらい、一途で激しいのである。

祭りの後の

「あれ、ジェイド、何してるんだ?」
 ジェイドが顔を上げると、カリムが教室の入口で右手を上げていた。

11 月吉日、ハロウィーン実行委員会の会計であるジェイドは、イベントの決算書を纏めていた。
 寮に戻るのも面倒なので自教室で作業を進めていたところ、どうやら集中していたらしい。当初は疎らに憩っていた級友達はいなくなり、自教室にはジェイドだけになっていた。
「こんにちは、カリムさん。ハロウィーンの会計の処理をしていました」
「おお、そっか。決算書、集まったんだな」
 カリムはとたとたと寄ってきて、すとんとジェイドの隣に座った。
「決算もジェイドがやるのか」
 カリムがジェイドの書類を覗き込む。
「最後までひとりがやった方が取りまとめも楽ですしね。先生方からチェックと監査を頂きますので、独断にはなりませんよ」
 ジェイドは数字を書き写しながら答えた。
「やっぱりジェイドはしっかりしてるな。決算書、見てもいいか?」
「どうぞ」
 実行委員だから見てもいいだろう。ジェイドはそう判断して、カリムを好きにさせておく。
 返答したはいいが、ジェイドはおや、と思考を止めた。
(カリムさんはこれを読めるのでしょうか……)
 まず、カリムが決算書を読むイメージがあまりない。重ねて、カリムは細かいことは苦手と言っていた。座学もあまり得意ではないようで、アズールやリドルに講釈を受けていたのを見たことがある。大丈夫だろうか、とカリムを横目で見た。
 ジェイドが伺うと、意外なことにカリムは黙々と書類を読んでいる。
(……こんな顔もできるんですね)
 カリムは珍しく、真剣な表情をしていた。紅玉の瞳は眇られ、魅力的な表情をしている。なんとなく色気を感じるのはきっと惚れた欲目だ。恋の前にはジェイドもただの哀れな人魚の男だった。
 だが、見た目だけでは読めているかは分からない。ジェイドは興味が湧いて、カリムに声をかけた。
「読んでいて、わかりますか?」
 失礼な物言いの自覚はあるが、カリムがそんなことを気にしないことはよく分かっているので、ジェイドは構わず尋ねる。
「んん、大体は。実行委員もしてたしな」
 カリムは顔を上げて答えた。真剣な顔と目が合って、なんとなくドギマギする。
 曰く、得意ではないけど大体読めるのだとか。
(相変わらずカリムさんは面白い……)
 明るくて底抜けにお人好し、大雑把でガサツな面もあるのに、決算書は読めるし目利きはできる。実はしっかり商人なのだ。二面性につい目が離せなくなる。
(しかし、なんだか落ち着きませんね)
 普段元気なこの人が静かにしているだけなのに、気がそぞろになってしまう。
 面白い、意外なものは好きだ。本来なら、こういう二面性も好ましいはずだ。その筈なのに、カリムが難しい話をしたり商人のような仕草をすると落ち着かなくなってしまう。まるで、自分の知らない人みたいで。
(僕は知っていたいんでしょうか、カリムさんのこと)
 自問自答に入りそうになったところを引き留めたのは、意中の人の声だった。
「なるほどな」
 ジェイドが視線を上げると、カリムはオクタヴィネルの決算書を見て深くうなづいていた。
「オクタヴィネル、うまくやったよなぁ」
「ご不満でしたか?」
 ジェイドは委員会の会計として、予算不足の相談をしてきたスカラビア寮を退けた。さらにオクタヴィネル寮としては外部の業者を絡めて展示を作った。カリムが大きな水槽のモノの良さを見抜いて、何事かと聞いてきたのを思い出す。
「ああ、ごめん、褒めてるんだ。お前らは普段ラウンジでやってる事をうまく結びつけたんだろ。さすがだな、って思ったよ!」
 ずるい、と詰られるかと思っていたが、見当違いだったようだ。ジェイドはカリムの賞賛を受けて嬉しくなる。
「僕らにできる最大限をやらせて貰いました」
「うんうん、どこもハロウィーンは力が入るよな!」
 カリムは新たに紙を後ろへ送り、自寮の決算書を眺めた。
「ウチ、寮での話し合いが盛り上がって。アレコレしてるうちに予算がオーバーしちまってな。なんとか削ったんだけど、やっぱり足りなくてさ」
 ジェイドは作業の手を止めてカリムを見る。こういう裏話を聞くのは面白い。
「派手になるのは大歓迎だし、テーマもすっげーいい案だった。寮のためになるなら個人的に出資しようかと思ったんだけど……ジェイドに断られた後、みんなで考え直して予算を配分し直したんだ」
 ジェイドは当時を思い出す。打診するにしても、寮生皆で話し合った結果を、カリムは寮の代表として掛け合いに来ていた。
 カリムの付き添いで来たジャミルも、珍しく食い下がるカリムを叱らなかった。それだけ、力が入っていたのだろう。
 その後再提出された予算はしっかり枠内に収まっていた。
「飾りも衣装も沢山考えて工夫して。みんなでアレコレ考えながら作ったら楽しくって。すごくいいものができたし、お客さんにも喜んでもらえた」
 褐色の指が自寮の決算書を撫ぜる。カリムは慈母のような、彼らしからぬ表情をしていた。
「途中はどうなることかと思ったけど、すごくいいハロウィーンだった!」
 そう言って、カリムはいつもの笑顔で笑った。その姿は秋の西日に背中に照らされて柔らかく輝いている。
「ええ、準備は大変でしたけど、特別なハロウィーンになりました」
 ジェイドも心から同意する。予想を裏切り、例年になく盛り上がった今年のハロウィーンは思い出に残るものとなった。何が起こるか分からない、これだからハロウィーンは楽しい。
「よし、オレはこれでいくよ。邪魔したな!」
「いえ、お構いなく。いい息抜きになりました」
「それならよかった!」
 カリムは席を立ち、ジェイドに向かってニカッと笑う。
「今度、ジャミルにムナッザラを作ってもらうんだ。その時は呼ぶから、ジェイドも食べに来いよ」
「ええ、ありがとうございます」
「じゃあ、また明日な!」
 カリムを見送り、ジェイドは再び書面に向き合った。ふたりっきりで話をして、次の逢瀬のお約束まで。珍しい表情も沢山見られた。
「お土産を考えなくてはなりませんね」
ジェイドは満ち足りた気持ちでひとり微笑んだ。

夜を泳ぐ

 ウツボは夜の住人である。昼は岩陰に身を潜め、活発に動き回るのは暗くなってからだ。
地上に生きる自分達もまた夜行性のようなもので、授業のない夜間に徴収という名の狩りを行っている。

 今日は外が明るい。
 ジェイドは寮に帰宅する道すがら、窓の外に意識を向ける。光源を追うと、丸い月がこちらを静かに見下げていた。
 ああ、満月か。道理で明るい。
「ほら、フロイド。今日は満月ですよ」
 前をだるそうに歩くフロイドを呼び止める。フロイドは首を動かすと窓の外を見た。
「なんか明るいと思った」
 フロイドはつまらなさそうに顔の向きを戻す。今日の獲物はいまいち食いでがなかったので不機嫌そうだ。
「ええ、いい月ですね」
 ジェイドは星が好きだが、月も嫌いではなかった。晴れた夜に海上に出て、空と海の境目をぼんやりと漂うと、月の光の中を泳いでいるような気分になる。星や月を眺めながら尾鰭を動かすと満ち足りた気持ちになった。
 そして現在。遮蔽物の多い地上では影の濃淡を強く感じる。窓から光が差し込む様は、海の中で見える光の柱に似ていた。
 海ほどではないが、地上の夜も悪くない。ジェイドはそう思っている。地上に来て知ったものは多い。キノコ、植物園、山、赤い色……煌めくガーネットレッド。太陽のように笑う愛おしい恋人。
(……カリムさんは、まだ起きているでしょうか)
 ジェイドはフロイドを先に帰らせ、スマートフォンの通話アプリを起動した。

 電話は3コールで砂漠へと繋がった。
「ジェイドか?」
 珍しい、もう寝てしまっているかもと思っていた。起きていたのか。
「こんばんは。起きていたんですか?」
「なんだか眠れなくてな。絨毯と一緒に月を見てた。今日は満月なんだ」
「ええ、こちらからも見えています」
 カリムが同じ月を見ていたのが嬉しくて、ジェイドも空を仰いだ。満月越しに目が合った気がしてこそばゆい気持ちになる。
「今日の月は色が深くて、ジェイドの左目みたいだって思ってた」
「嬉しいです。僕も月を見てカリムさんのことを思い出していました」
 カリムの純真さに心が温もり、ジェイドは口許を緩めた。お返しにこちらの想いを明け渡すと、カリムはありがとうな、と照れくさそうに笑った。
「地上の月夜は明るいですね」
「深海は、太陽の光も届かないんだよな?」
「ええ、海面まで上がらないと月は見えません」
「なあ、海で見る月って、どんな感じなんだ?」
 ジェイドは海に思いを馳せる。
 真っ暗な空の下、青く揺れる水面を月の光が飾り付ける。静かな波の音と、夜のしじま。たまに人間の船の汽笛の音が響く。
 情景を思いつくがまま話してやると、カリムは静かに相づちを打った。
「砂漠の夜も真っ暗で静かなんだ。たぶん海みたいに」
「おや、そうなのですか?」
「ああ。水はないけど砂漠の砂が波みたいだから、なんとなく似てるかも」
 海の方もきっと、すっげー綺麗なんだろうな。カリムは優しく呟いた。
「なあ、ジェイド。今度は一緒に月を見よう。オレ、ジェイドに砂漠の月夜を見て欲しいんだ。きっと気に入る」
「ええ、もちろんです」
「雲がなければ星もたくさん見られるぞ!」
「それは素敵ですね」
「おう! 月だって、手が届きそうなくらい近くに寄れるんだぜ!」
「あっ、それは結構です」
 ジェイドは目を閉じて壁にもたれ掛かる。
 砂漠と海、真逆の世界が月を通じて繋がっていることが嬉しかった。なにより愛する番とふたり、夜空を泳ぐなんて夢がある。高いところは苦手だが、多少はいいかなんて思える位には。
「では僕も、いつかカリムさんを夜の海にお連れしますね」
「あはは、そりゃあいいな! じゃあ、それまでに泳ぐ練習しておくな!」
 カリムがはしゃいだ声を上げた。本気にしてくれたかは分からないが、提案はお気に召したようだ。
「砂漠の月、楽しみにしていますね」
「ああ、こちらこそ!」
 おやすみなさい、と挨拶をして電話を切る。
 ジェイドはもう一度窓の外を見た。月は少しだけ高度を上げ、闇夜を渡っていく。
 ジェイドは窓辺を離れ、寮へ向かって歩き出した。
 今宵の月が美しいのは、きっと彼がいるからなんだろう。今夜はいい夢が見られそうな、そんな気がした。

悪戯

 ハロウィーン、それはこの学園の一大イベントである。本来は子供が仮装をして民家を回り、お菓子を求める催しだが、ここは悪ガキの多いNRC。やんちゃな学生がお菓子を貰って満足する筈が無い。要は例年、悪戯の応酬で大騒ぎとなり、揉め事も増える傾向にあった。
 そのため各寮の寮長と副寮長は、イベントの日の朝にミーティングを行い、注意事項の確認や揉め事への対応法を共有をする。教師だけでは手に余る分、寮でも目を光らせろということらしい。そんなわけで毎年、各寮長は校内の見回りや仲裁など、面倒な役回りを押し付けられていた。

 早朝、ジェイドは鏡舎を出て鏡の間へ向かっていた。アズールはラウンジ運営の打ち合わせをすべく少し早めに校舎へ向かった。身支度を済ませたジェイドは寮生達に待機の指示を出し、一足遅く会議に向かう。
 一人で道を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「お、ジェイドだ!おはよう!」
 大好きな人の声に呼ばれてどきりとする。振り帰ると、目下片思い中の人間、カリム・アルアジームがこちらへ走り寄ってきた。
「カリムさん、おはようございます。素敵なお召し物ですね」
 今年のスカラビア寮の仮装は狼男だと聞いている。カリムの頭からは白い耳が生え、元々の耳の位置を隠すようにターバンが巻かれている。顔には赤いフェイスペイントがあり、エキゾチックな衣装も相まって、魔物というよりは神聖な獣のようだ。
「おう、爪もあるんだぜ!」
 そう言ってカリムはわおんとポーズを取った。ジェイドはおやおや、と感動詞を重ねる。いつもと違うカリムの姿に心がときめいていた。好きな子の特別な姿はこんなにドキドキするものらしい。
「とてもお似合いです」
「ありがとう、ジェイドはかっこいいな! オレ、白い服好きなんだ」
 なんの仮装だ? と聞きながら、カリムがジェイドの周りをくるりと一周する。まるで子犬のような仕草にジェイドの笑みが増す。
「マミー、ミイラ男です。人魚が乾涸びてミイラになる、というのは皮肉な気もしますが」
「確かに乾くと大変そうだな……」
 カリムが唇を尖らせた。しかしすぐにパッと顔を輝かせる。
「なあジェイド、アレやってもいいか?」
「アレ、とは?」
「へへ、トリックオアトリート!」
 カリムは笑顔で合い言葉を唱えた。ジェイドはふむ、と顎に手をやる。お互いに今日は忙しくなるから、やるなら今のうちかもしれない。
「ふふ、いいでしょう。では、トリートでお願いします」
「えっ、悪戯でいいのか!?」
 予想外の返答に驚くカリムに、ジェイドは微笑む。
 お菓子を貰って喜ぶ顔も見たいが、彼が自分にどんな悪戯を仕掛けてくるか、そちらの興味の方が勝った。
「お菓子は温存するようにとアズールから言われておりまして」
「んー、そっか、そうだよな……」
 適当に理由を作って話すと、カリムは唸った。まだミーティングまで時間がある。きっと大して悪いことはしてこないだろうと思い、ジェイドはカリムの悪戯を待った。
「じゃあ、帽子を貸してくれるか?」
「いいですよ」
 ジェイドは帽子を取ってカリムに差し出した。カリムは帽子を受け取ると、装飾の包帯をひとつ掬い取り、そこに唇を落とした。
「……へへ、どれにちゅーしたと思う?」
 カリムが軽く声を立てて笑い、帽子をジェイドの頭に深めに被せた。少しだけ、声が上擦っている。
「答え合わせはまた後でな! 先に行ってるぜ!」
 そう言うと、カリムは校舎に走っていってしまった。
(こ、れは……)
 ジェイドは酷く動揺していた。凄まじい不意打ちを食らってしまい、耳まで熱が上がる。
 彼のあんな様子は見たことがない。それに相手の持ち物に口付けるなんて真似、期待しない方が無理な話だ。ジェイドは早まる鼓動を抑えつける。
「ふふ、困りました」
 ジェイドはひとりごちた。今日はこれを意識しながら一日を過ごさなくてはならない。答え合わせはおそらくイベントが終わってからになるだろう。業務に支障が出たらどうしてくれよう。
 ジェイドは帽子を被り直す。呼吸を整えると、校舎に向かって歩き出した。

 全部が終わったら、お返しをしてあげなくては。今日は長い一日になりそうだ。

夢に出てきた推しカプのネタを捏ねた。
🎃イベ、イベストヤバかったな……
ふれあいコーナーは普段から愛玩動物だと思っていないと出ない感想だと思うよ。

いたずら

(生放送後に気が狂ったように書いたやつ。
投稿後に「変身薬は貴重」「動物への変身はご禁制」などの公式設定を得て震え上がったのはいい思い出。ふんわり読んでください)

 普通に考えれば当たり前の話だ。
 人魚から人間に変わる薬があるのなら、他の種族にも変わる薬もあるだろう。魔法薬学には明るいつもりでいたが、本物を目の当たりにするまで実感が湧かなかった。ジェイドは目の前に現れたカリムをじとりと観察する。
「今年のハロウィンパーティで使おうと思ってるんだ!」
 そう言ってカリムはにかっと笑った。頭の上で真珠色の髪と同じ色の耳――形からしてイヌ科だろう――が揺れた。
「耳の位置まで移動しているとは」
 元々耳があった位置は綺麗に塞がれているようだった。ジェイドはよくここまで綺麗に変わるものだ、と自分のことを棚に上げて感心してしまう。腰を見ると、白い尾がゆらゆらと動いている。
 ううん、これは。とても、とても興味深い。
「カリムさん、お願いがあります」
「おう、なんだ?」
「触らせていただいても?」
 おそるおそる聞くと、カリムは二つ返事で快諾した。
「失礼します」
 ジェイドはまず、耳の後ろに手を伸ばした。
 毛足は短く、天鵞絨のような手触りがする。若干温いのは血が通ってる証拠だろう。ついついと指を上下させる。
「なんかくすぐったいなあ!」
 手の下でカリムが身を捩った。耳に神経が通っているのかも、とジェイドは推察する。
「ふふ、イヌ科でも耳に感覚はありますからね」
 親指と人差し指で薄い耳を摘むと、カリムは無邪気にきゃっきゃと声を上げた。後ろでモップのような尻尾が楽しそうに揺れている。
 これはいい、彼にはいつも驚かされてばかりいるのだ。ちょっと仕返ししてあげようと、ジェイドは指を耳から下へ動かす。
「イヌ科の生物は、耳で感情を表すのだそうで」
 ジェイドは耳の真ん中、カリムの頭に手を置いて、優しく耳を撫でる。予想外のスキンシップにビクンと耳を前に向けたカリムだが、頭を撫でられる気持ちよさに目を細めた。何度も撫でると白い立ち耳が次第に倒れていく。
「諸説ありますが、耳が倒れている時はリラックスして満足しているという話です」
「オレ、頭を撫でられたの久しぶりかも」
 そうだろう。だって彼はいつも撫でる側の方にいるのだから。特に寮生を褒めたい時に頭を撫でる姿を何度も目撃している。
「意外と嬉しいもんだなあ!」
 カリムは屈託なく笑った。さっきまで活発に動いていた尻尾を垂らし、左右に小さく振っている。愛らしい姿に気分が高揚した。
「ちなみに、耳の付け根には沢山ツボがあって、マッサージすると気持ちいいんだそうです」
 ジェイドの大きな手がカリムの耳の付け根を優しく揉みほぐす。カリムは満足そうにくふーっと息を吐いた。
「ホントだ、コレきもちいな……」
 リラックスしてふにゃふにゃしてきたカリム。くすぐったがりのカリムなのでちょっと悪戯してあげようかと思ったのだが、予想外に喜ばれた。結果的に仕返しはならなかったが……まあこれはこれで。ジェイドは思い直してカリムの眉間に手を伸ばす。
「ここもリラックスできるそうです」
「うわ、ほんとだ」
 その後、おおよそ犬が好む場所を撫でたところでジャミルがカリムを迎えに来た。2人で薬を飲んだはいいが、シルバーに見せてくる、と実験室を出ていってしまったらしい。ジャミルはすぐ後を追おうとしたが自分も耳が生えたままなのに気付き、獣人化を解除してから出てきたそうだ。
「……なんでこいつ、こんなふにゃふにゃなんだ?」
 ぽやぽやした様子の主人を見て物凄く何か言いたそうにしていたが、カリムを元に戻すことを優先したようだ。カリムの手を引いて実験室に戻っていく。

 次はちゃんと悪戯になるまでしてあげよう。ジェイドは月末が楽しみになった。

役得

 今日の授業のテーマは「魅了魔法」だった。種類、掛け方、解き方、防衛術などを学習する。魅了、みりょう。心を引き付け夢中にさせること。相手の心を絡めとって自分の元へと引きずり込む人魚にとっては馴染み深く、初等教育で扱い方を学んでいく。
 授業は進み、実技の時間となった。めいめいペアを組み、相手に魅了魔法をかけて言うことを聞かせるものだった。
 授業カリキュラムを事前に把握していた僕は、最初からカリムさんの隣に陣取り、すぐにペアを申し出られるようにしていた。だが、先に声をかけてきたのはカリムさんの方だった。
「ジェイド、頼む! オレとペアを組んでくれ!」
 理由は察せられた。授業とはいえ、アジーム家の跡取りから迫られた、なんてゴシップはなるべく避けたいのだろう。そうなると彼と親しい者に頼むことになるが、従者はこの教室に居ないし、シルバーさんはうたた寝している所をリドルさんにつつかれている。
「僕でよろしければ」
 頼りにされたという事実に気分が上がる。なにより懸想している彼からの願ってもない頼みだ。謹んでお受けした。
「んんー、効いてるか?」
 教師の指示通り、カリムさんは僕に魅了魔法を掛けた。この魔法は術の性質上、マジカルペンは発光しない。掛かったかどうかは相手の目を見て確かめないとならない。
 そんなわけでカリムさんは僕の目を覗き込んだ。両の手で僕の頬を包み込み、じっくりと見つめてくる。やがてよし、と頷いたので、魔法が成功していたのだと理解する。
「目がハートになるなんて、ロマンチックな魔法だな」
 カリムさんの言う通り、この魔法は被術者の瞳孔がハート型になる。瞳が欠けると視界に支障が出そうだが見える範囲は変わらないので、被術者は魔法に掛かったかどうか判断できない。
 顔から離れていくカリムさんの手の温もりを寂しく思いつつ、僕は次を促した。
「さあ、カリムさん。僕を誘惑してみてください」
 実のところ、人魚である僕は魅了魔法に耐性があるため、魔力の安定しない生徒が使っても支障がないぐらい軽微なこの魔法はほとんど効かない。ちょっとした酩酊状態を呼び起こして術者を魅力的に見せるらしいが、カリムさんが魅力的に見えるのはいつもの事だ。つまり、理性を保ったまま好きな相手が自分を口説く様子を観察できる。
 ああ、今僕は悪い顔をしてないだろうか。あのカリムさんが僕をどう懐柔するのか興味が湧いて仕方ないのだ。
「うん、わかった!」
 カリムさんはふんす! と拳を握った。
「まずは……そうだな。ジェイド、その椅子に座ってくれるか? お前とゆっくり話がしたい」
「わかりました」
 意地悪を言わずに素直に椅子に座る。隣の椅子に腰掛けたカリムさんは、いつもの笑顔でにこりと笑う。
「うん、やっぱりこっちの方が顔が良く見える」
 カリムさんは少し椅子をこちらに寄せると、つい、と僕に顔を寄せた。
「ジェイドの肌は綺麗だな」
「ええ、人魚に乾燥は大敵でして」
「いつも保湿剤を持ち歩いてるもんな」
 カリムさんの手が僕の手をすくい上げる。僕の白い手を見て、綺麗な手だ、と零すように褒める。いつもより接触が多くて心が浮き足立った。
「寮の仕事も忙しいのに、自分のことをしっかりして、ジェイドは偉いな」
 空いた片方の手が僕の頭に伸びる。そのままよしよしと、稚魚にするように頭を撫でられた。
(これはこれは……)
 普段見下ろすばかりで頭を撫でられることは滅多にないので心臓に悪い。まして相手が想い人で、魅了魔法なんて悪いものをかけられているから尚更だ。当の想い人様は目が合った途端に屈託なく笑いかけてくるものだから始末に負えない。
「嫌じゃないか?」
「いえ、続けてください」
 頭を擦る手が心地いい。カリムさんの手からふわんと花の匂いがして、たまらない気持ちになった。
「ふふ、ジェイドはいい匂いがするな」
 ふいにカリムさんが距離を詰めてきた。いくら天真爛漫な気性とはいえ、魅了をかけた相手に無防備過ぎないか。
 懐に飛び込んできた相手に身を固くすると、カリムさんはごめん、と言って身を引いた。引き下がろうとするカリムさんを強引に引き寄せる。
「……魅了を掛けた相手に、不用意に近づいてはいけませんよ」
 片手をカリムさんの首の後ろに回し、頭を固定する。赤い瞳がきらりと光る。
「こんなふうに、いいようにされてしまうかもしれません」
 すり、と耳を慰撫すると、カリムさんはくすぐったいぞ、と笑った。
「うーん、でもさ。相手を魅了、するんだろ?」
 カリムさんは僕の背中に腕を回し、僕の額にターバンを巻いた額をつけた。
「なら、このくらいしなきゃ、懐柔できないぞ」
 カリムさんがうっそりと目を細めた。そこにいるのは愛らしいラッコではなく、幾多の死線をくぐり抜けた毒蛇。人の心を引き付け、夢中にさせ、従わせる魔獣だった。
「ふふふ、貴方は本当に読めない人だ」
 面白くて、腹の底から笑いが込み上げてくる。この愛しい獣を衝動のまま食らってしまいたい。
 空いた手をカリムさんの頬に添える。そのまま口唇をカリムさんのそれに近付けた。
「そこまでだよ」
 唇が触れ合うギリギリの所で静止が掛かる。声の方を見ると、赤髪の少年が腕組みをしていた。
「やりすぎだよ、二人とも。周りをよくご覧よ」
 教室を見回すと、実技に励んでいたはずの生徒がみなこちらを見ていた。スカラビア寮の生徒が狼狽えた表情でカリムさんを見ている。
「見世物ではないのですが」
 そう言って微笑んでやると、リドルさんとカリムさん以外は全員目を逸らした。物分りがよくて助かる。
「僕だって馬に蹴られたくはないけど、交代の時間はとっくに過ぎているよ。早く交代するんだね」
 それだけ言うと、リドルさんはまた船を漕いでいたシルバーさんを叩き起こす作業に戻った。
「悪い、ジェイド。つい夢中になっちまって……」
「いえ、こちらこそ」
 むしろごちそうさまでしたとは言わない。
 カリムさんが自身のマジカルペンを揺らした。すっと何かが軽くなり、魔法が解けたことを理解する。
「交代しましょうか。魔法をかけますよ」
「あ、待ってくれ!」
 カリムさんが僕の手を掴む。視線を向けると、カリムさんが気まずそうに視線を逸らした。
「ジェイド、魔法に当てられちゃったんだよな? さっきの、ほんとにちゅーされるかと思って……ちょっとまだドキドキしてるから、深呼吸させてほしい」
 顔を赤らめておどおどとペンを握り締めるカリムさん。先程とギャップがあり過ぎてこちらまでくらくらしてきた。
「ご随意に」
 僕は抱き潰したい衝動をぐっと抑え、カリムさんが落ち着くのを待った。
 魔法がそんなに効いていなかったことは、しばらく秘密にしておこう。