赤い糸
「人魚は個体数が少ないんです」
「そうなのか?」
「一年生の授業で言ってましたよ」
ふふふ、ジェイドは笑いを零す。
「ただでさえ頭数がないだけに、運命を感じる力は絶大なんです。元々、魚は野生のものですから、生物としての本能が強いんでしょうね」
「そういうもんなのか」
カリムはふむふむ、と相槌を打つ。
「陸では赤い糸、というものがあるそうですね。それがより太くて頑丈だと考えてもらえれば」
このように。ジェイドは体の横から麻のロープを取り出した。手品みたいだ、カリムはジェイドの器用さに感心する。
「海の魔女の話に出てくる姫さんのやったことは、間違っちゃいないんだな!」
「そうとも言えます。あんなに無鉄砲な者ばかりではありませんが」
ジェイドはおもむろにカリムの片手をとる。
「まあ、こうと決めた相手を、なんとしても手に入れようとはするかもしれませんね。こんなふうに」
ジェイドは麻縄をカリムの手に巻き付けて軽く縛った。カリムの肌に傷がつかないよう、薄手のハンカチを噛ませている。
「赤い糸を、自分で結んじまうってことか?」
「いいえ、繋がりを強固にするために頑張る、というだけです」
「人魚は努力家なんだなぁ」
「そう捉えていただけるとやりやすいですね。さて、僕は寮に戻ります」
ジェイドはすっと立ち上がった。
「おう……お??」
カリムの片手首には麻縄が結われたままになっている。ジェイドが遠ざかろうとすると、縄がカリムをジェイドの方に引っ張るのだ。
「ジェ、ジェイド! 」
「おやおや、どうされました? 我が寮に遊びに来られますか?」
「ああ、そういうお誘いか? ならいっか!」
カリムはジェイドに繋がれたまま鏡舎に向かった。
ちなみに、縄は寮長がしょっぴかれてると寮生から通報を受けたジャミルが燃やすまでそのままだった。その後カリムはめちゃめちゃ怒られたしジェイドはアズールにしょっぴかれていた。
秘密
たそかれ、すれ違う生徒の顔が分からなくなる夕暮れの時間。
自教室へ忘れ物を取りに行くため、カリムはひとり廊下を歩いていた。部活動の途中で教室に忘れ物をしたことに気が付いたのだ。
(暗くならないうちに取って来られるといいけど)
カリムは道を急ぐ。学び舎はその風格の分、夜の静けさをより恐ろしいものにする。まるで迷宮のような、何が潜んでいるか分からない、不気味な静けさ。
「うわっ……!」
突然、強い力で手を引かれた。悲鳴を上げたのもつかの間、空き教室に引きずり込まれる。
刺客かと身を固くしたのは一瞬のこと。嗅ぎなれた香水の香りで、捕食者の正体を知る。
名前を呼ぶことは叶わなかった。ぎゅう、と抱き締められたから。まるで彼のルーツのように、抱いた身体を絞めつけてくる。
あまりにぎゅうぎゅう締め付けてくるものだから苦しくなって、カリムは広い背中をポンポンとあやす様に叩く。拘束が緩くなったところで、背中に手を回した。
食べたい日なのだ。今日は。
人魚と人間では、常識も倫理観も、生活も異なる。人の姿を借りて陸を歩く彼らだが、全てがヒトに成った訳ではない。時折乱暴な衝動に駆られてしまうことがある。
今すぐ、海に攫って食べてしまいたい。
初めて腕の中に引き込まれた時、吐息混じりの声で呟かれた言葉こそ、彼らの本質、暴力的なまでの執着だった。
無理やり海に引きずり込まれないだけ優しいと、数多の誘拐を経たカリムは思う。こうして擬似的にカリムを捕獲することで許してくれている。
もっと酷いこともできるはずなのに。
「捕まえました」
金の左目がキラリと光った。一筋の黒い髪がカリムの頬に落ちる。
夕方の校舎は水の中のように静まり返っている。誰も助けが来ない深くて暗い海の底のようだ。
「食べてしまってもよろしいのでしょう?」
午後6時の秘め事。カリムの是の言葉は、噛み付いてきた唇に遮られた。
至福
その日、ジェイドは駄々をこねる兄弟とバブ返り寸前のアズールの喧嘩をBGMに、壊れた厨房設備の修理をしていた。恋人との茶会中に呼び出され戻ったらこれだ。怯える寮生達に持ち場に戻るよう指示を出し、適当な所で腐れ縁2匹を仲裁する。逢瀬を邪魔された対価に、ふたつの頭をコツンと叩いて静かにさせた。蹲る彼らにもう呼び出すなと伝え、さっさと厨房を後にする。
「おかえり、大変だったな」
部屋に戻ると、カリムが弾いていたウードから顔を上げた。
「せっかく久しぶりでしたのに……申し訳ありません」
ジェイドは返事もそこそこにカリムを抱え上げると、自分の膝の上に横抱きにした。ウードをそっと机の脇に降ろす。
「アレ、よろしいですか?」
「ん、いいぞ!」
ジェイドはカリムの頬を大きな手でむにっと押した。
カリムの頬にセラピー効果を認めたジェイドは、度々こうして頬を触らせてもらっていた。異なる体温やもちもちな感触が心を安らげてくれる。
VDCを終えて日が浅く、肌ツヤを残したままのカリムの頬は滑らかで弾力がある。まさに肉の至福。無心になって触っていると、少し下から視線を感じた。目を合わせると、深い赤色の目が眇られる。
「楽しいか?」
「すみません、つい」
少し夢中になりすぎていたみたいだ。ジェイドは頬から手を離すと、痩身に腕を回した。
「いいぜ、久しぶりだったもんな」
カリムはジェイドの首に手を回し、首元に顔を寄せた。カリムの体温はジェイドより幾分か高く、抱き締めると温かい。自分が他人の体温に癒される日が来るなんて。ジェイドは無意識に息をつき、カリムを抱き直す。
「抱っこも久しぶりだな」
カリムがうっとりと呟く。ジェイドが額にキスを落とすと、喜んで足をパタパタと揺らした。
「ここにキスしても?」
伺いながらカリムの頬に触れる。
「そこ以外もいいぜ」
悪戯っ子な表情に煽られ、ジェイドは頬に唇を寄せた。
輪っか
「あ、歯型」
カリムが右手を眼前に翳す。よく見ると、薬指の付け根に点々と跡がついていた。どれほどの力で噛まれたのだろう。傷跡の一部はカサブタになって、宝石のように指を飾り付けている。
リドルはカリムの手を取り、自分の目の位置まで持ってくる。
「人間の歯型にしては鋭いね」
「昨日、ちょっと噛まれちまってなー」
「魔法動物かい? 指を食いちぎられなくてよかったね」
「いや、ジェイドに」
「……自分の寮生の手綱ぐらいちゃんと握ったらどうなんだい?」
「あれとフロイドはどうにもなりません。しかし、よりによって右手の薬指なんて……ジェイドは随分必死ですねぇ」
アズールは青い目で睨みつけてくるリドルを後目にカリムを冷やかす。カリムは頭の上にはてなを浮かべ、首を傾げた。
「何が意味があるのか?」
「知らないのかい? 結婚指輪だよ」
「えっ、結婚指輪?!」
「僕もそのように聞いています」
「そんな意味があったのか」
アズールはリドルの説明に便乗する。陸では手の薬指につける指輪は、相手の心を掴んで愛の誓いを強固にするものだと聞いている。
真意を知ったカリムは薬指をしげしげと眺めた。
「君の国では付けないのかい?」
「うちの国は両足の指につけるんだ」
「文化の違いですね」
アズールは首を竦めた。
『人間の結婚指輪は右手の薬指につけると聞いていたのですが』
昨晩、歯型の主は意味深長なことを言っていた。アズールの中で点と点が綺麗に繋がる。口説いたつもりだったのに、カリムに響かなかったのが不満だったらしい。
『いっそ、指ごと齧りとってしまえばよかった』
その後に続いた物騒極まりない一言は完全に余計だった。指をちぎれば誰とも誓い合えないとほくそ笑む友人を思い出し、アズールはこめかみを揉む。頭の痛いことだ。
「戻ったらジェイドに伝えておきます」
必要なのは指輪ではなく、足枷の方であると。
空
本日、晴天。窓の外は雲ひとつない青空だった。カリムははるか上空を真逆の色彩を持つ瞳に映す。
こんな日は、絨毯で空を飛んだら気持ちが良さそうだ。
旋回して、急加速。上まで上がって一気に下へ。頭の中でくるくると絨毯を動かしていると、不意に視界が暗くなった。目を覆われたのだ。
「油断したなぁ、誰だ?」
先程、上等な革靴の音がした。学生のうちで使えるのは極わずかなくらい上質なものだ。目を閉じて感じ取れる気配は水の静謐さを纏っている。整えられた足音と手の大きさを考えると、答えは一つだけだ。
「空が見えないぞ、ジェイド」
振り向かずに指摘すると、巻きついていた掌がほどけた。代わりに体に腕が伸ばされ抱き込まれる。深い声を耳に流し込まれ、くすぐったくて身をすくめた。
「貴方を空に取られてしまいそうでしたから」
ジェイドのイントネーションは少しだけ平坦だった。
「あんなものより、海の方がずっといいです」
しっとりと互いの体温を分け合うように、ひたりと背中に硬い身体が張り付く。
「ただの空気の塊じゃないですか。無機物に心を委ねるくらいなら、僕の取り分を増やしてください」
「やきもちか?」
「やきもちです」
珍しく不機嫌そうに言うものだから、カリムは笑ってしまった。この男は、自分の敵わない、届かないものを嫌がる。野生で生きてきた身の上で、絶対はないことを知っているのだ。
安心させるために腕を撫でてやると、拘束が一層きつくなった。
「高いところは苦手じゃないのか?」
「地に足が着いていますから」
ここは学園の中で最も高い場所、展望室だ。珍しく人気はない。カリムは窓辺でひとり、青色に紛れていた。一人飯は苦手だが、一人でいるのは嫌いではない。
唐突に、かく、と上を向かされる。トルマリンみたいな青緑色が、白い光を浴びて輝いていた。
「また、空ごと」
同じ色のまつ毛の向こうで、金と橄欖が剣呑に光った。