役得

 今日の授業のテーマは「魅了魔法」だった。種類、掛け方、解き方、防衛術などを学習する。魅了、みりょう。心を引き付け夢中にさせること。相手の心を絡めとって自分の元へと引きずり込む人魚にとっては馴染み深く、初等教育で扱い方を学んでいく。
 授業は進み、実技の時間となった。めいめいペアを組み、相手に魅了魔法をかけて言うことを聞かせるものだった。
 授業カリキュラムを事前に把握していた僕は、最初からカリムさんの隣に陣取り、すぐにペアを申し出られるようにしていた。だが、先に声をかけてきたのはカリムさんの方だった。
「ジェイド、頼む! オレとペアを組んでくれ!」
 理由は察せられた。授業とはいえ、アジーム家の跡取りから迫られた、なんてゴシップはなるべく避けたいのだろう。そうなると彼と親しい者に頼むことになるが、従者はこの教室に居ないし、シルバーさんはうたた寝している所をリドルさんにつつかれている。
「僕でよろしければ」
 頼りにされたという事実に気分が上がる。なにより懸想している彼からの願ってもない頼みだ。謹んでお受けした。
「んんー、効いてるか?」
 教師の指示通り、カリムさんは僕に魅了魔法を掛けた。この魔法は術の性質上、マジカルペンは発光しない。掛かったかどうかは相手の目を見て確かめないとならない。
 そんなわけでカリムさんは僕の目を覗き込んだ。両の手で僕の頬を包み込み、じっくりと見つめてくる。やがてよし、と頷いたので、魔法が成功していたのだと理解する。
「目がハートになるなんて、ロマンチックな魔法だな」
 カリムさんの言う通り、この魔法は被術者の瞳孔がハート型になる。瞳が欠けると視界に支障が出そうだが見える範囲は変わらないので、被術者は魔法に掛かったかどうか判断できない。
 顔から離れていくカリムさんの手の温もりを寂しく思いつつ、僕は次を促した。
「さあ、カリムさん。僕を誘惑してみてください」
 実のところ、人魚である僕は魅了魔法に耐性があるため、魔力の安定しない生徒が使っても支障がないぐらい軽微なこの魔法はほとんど効かない。ちょっとした酩酊状態を呼び起こして術者を魅力的に見せるらしいが、カリムさんが魅力的に見えるのはいつもの事だ。つまり、理性を保ったまま好きな相手が自分を口説く様子を観察できる。
 ああ、今僕は悪い顔をしてないだろうか。あのカリムさんが僕をどう懐柔するのか興味が湧いて仕方ないのだ。
「うん、わかった!」
 カリムさんはふんす! と拳を握った。
「まずは……そうだな。ジェイド、その椅子に座ってくれるか? お前とゆっくり話がしたい」
「わかりました」
 意地悪を言わずに素直に椅子に座る。隣の椅子に腰掛けたカリムさんは、いつもの笑顔でにこりと笑う。
「うん、やっぱりこっちの方が顔が良く見える」
 カリムさんは少し椅子をこちらに寄せると、つい、と僕に顔を寄せた。
「ジェイドの肌は綺麗だな」
「ええ、人魚に乾燥は大敵でして」
「いつも保湿剤を持ち歩いてるもんな」
 カリムさんの手が僕の手をすくい上げる。僕の白い手を見て、綺麗な手だ、と零すように褒める。いつもより接触が多くて心が浮き足立った。
「寮の仕事も忙しいのに、自分のことをしっかりして、ジェイドは偉いな」
 空いた片方の手が僕の頭に伸びる。そのままよしよしと、稚魚にするように頭を撫でられた。
(これはこれは……)
 普段見下ろすばかりで頭を撫でられることは滅多にないので心臓に悪い。まして相手が想い人で、魅了魔法なんて悪いものをかけられているから尚更だ。当の想い人様は目が合った途端に屈託なく笑いかけてくるものだから始末に負えない。
「嫌じゃないか?」
「いえ、続けてください」
 頭を擦る手が心地いい。カリムさんの手からふわんと花の匂いがして、たまらない気持ちになった。
「ふふ、ジェイドはいい匂いがするな」
 ふいにカリムさんが距離を詰めてきた。いくら天真爛漫な気性とはいえ、魅了をかけた相手に無防備過ぎないか。
 懐に飛び込んできた相手に身を固くすると、カリムさんはごめん、と言って身を引いた。引き下がろうとするカリムさんを強引に引き寄せる。
「……魅了を掛けた相手に、不用意に近づいてはいけませんよ」
 片手をカリムさんの首の後ろに回し、頭を固定する。赤い瞳がきらりと光る。
「こんなふうに、いいようにされてしまうかもしれません」
 すり、と耳を慰撫すると、カリムさんはくすぐったいぞ、と笑った。
「うーん、でもさ。相手を魅了、するんだろ?」
 カリムさんは僕の背中に腕を回し、僕の額にターバンを巻いた額をつけた。
「なら、このくらいしなきゃ、懐柔できないぞ」
 カリムさんがうっそりと目を細めた。そこにいるのは愛らしいラッコではなく、幾多の死線をくぐり抜けた毒蛇。人の心を引き付け、夢中にさせ、従わせる魔獣だった。
「ふふふ、貴方は本当に読めない人だ」
 面白くて、腹の底から笑いが込み上げてくる。この愛しい獣を衝動のまま食らってしまいたい。
 空いた手をカリムさんの頬に添える。そのまま口唇をカリムさんのそれに近付けた。
「そこまでだよ」
 唇が触れ合うギリギリの所で静止が掛かる。声の方を見ると、赤髪の少年が腕組みをしていた。
「やりすぎだよ、二人とも。周りをよくご覧よ」
 教室を見回すと、実技に励んでいたはずの生徒がみなこちらを見ていた。スカラビア寮の生徒が狼狽えた表情でカリムさんを見ている。
「見世物ではないのですが」
 そう言って微笑んでやると、リドルさんとカリムさん以外は全員目を逸らした。物分りがよくて助かる。
「僕だって馬に蹴られたくはないけど、交代の時間はとっくに過ぎているよ。早く交代するんだね」
 それだけ言うと、リドルさんはまた船を漕いでいたシルバーさんを叩き起こす作業に戻った。
「悪い、ジェイド。つい夢中になっちまって……」
「いえ、こちらこそ」
 むしろごちそうさまでしたとは言わない。
 カリムさんが自身のマジカルペンを揺らした。すっと何かが軽くなり、魔法が解けたことを理解する。
「交代しましょうか。魔法をかけますよ」
「あ、待ってくれ!」
 カリムさんが僕の手を掴む。視線を向けると、カリムさんが気まずそうに視線を逸らした。
「ジェイド、魔法に当てられちゃったんだよな? さっきの、ほんとにちゅーされるかと思って……ちょっとまだドキドキしてるから、深呼吸させてほしい」
 顔を赤らめておどおどとペンを握り締めるカリムさん。先程とギャップがあり過ぎてこちらまでくらくらしてきた。
「ご随意に」
 僕は抱き潰したい衝動をぐっと抑え、カリムさんが落ち着くのを待った。
 魔法がそんなに効いていなかったことは、しばらく秘密にしておこう。