マスカテルと恋情

 その日、ジェイド・リーチは中庭の一角に陣取り、設置したテーブルにクロスを広げていた。少し見上げると、中庭は広葉樹が色づき、冷たくなってきた風が秋の深まりを告げている。
「もう少しで来られるでしょうか」
 ジェイドが椅子の設置を終え、陶磁器を並べる。モストロ・ラウンジで実際に使用している茶器だ。白い肌に、青い装飾が優美である。
 準備を終えてしまうと、ジェイドは椅子に腰かけて、そわそわと待ち合わせの相手を待った。
「ジェイド、待たせたな!」
程なくして、待ち合わせの相手が現れた。カリム・アルアジーム。ジェイドの同学年の生徒で、スカラビア寮の寮長。ジェイド個人としては、ひそかに想いを寄せる相手でもある。
「お時間頂きありがとうございます、カリムさん」
「なんてことないさ! ジェイドもテーブルとカップ、ありがとう」
 カリムは鞄から四角い缶を取り出した。
「ダージリンでよかったよな?」
「ええ、ありがとうございます」
「持ってるやつで一番いいのを持ってきた。夏摘み、いい香りだろ?」
 カリムが持ってきたのは紅茶の茶葉だった。缶の蓋を開け、ジェイドの鼻に近づける。無邪気に近づいた体温に、心臓がドクリと一度跳ねた。
「……本当に香りがいい」
 気持ちを誤魔化すように茶葉の匂いを吸い込む。緩く口角を上げてみせると、カリムは満足そうに微笑んだ。
「よし、早速やっていこう! ケトルはあるか?」
「こちらに」
 ジェイドが銀のケトルを差し出した。
「ちょっと水道から水を汲んでくる!」
 カリムは白いカーディガンをふわりと揺らして校舎に向かった。
「本当に、よくしていただけるのですね」
 ジェイドは紅茶の缶を手に取り微笑んだ。

♦♦♦

 事の始まりは、ジェイドがカリムに『紅茶の淹れ方を教えてほしい』と頼んだことだった。
「いいけど……オレでいいのか?」
 カリムは突然の申し出に驚いて赤い目を開く。ジェイドは頷いた。
「以前、熱砂の国の紅茶を淹れてもらったことがあったでしょう? その時のお茶は……甘さはさておき、香りがよく渋みも少ない、非常に上手に淹れられていました」
「そうか? 喜んでもらえて嬉しいぞ! 今日も飲んでくか?」
「ああ、お気持ちだけで結構です」
 すかさず甘いお茶を準備しようとするカリムを手で制する。
「もちろんタダでとは言いません。努力して習得された知識でしょうから、なにか対価をお支払いします」
「え、要らないぞ?」
「いえ、そういうわけにはいきません」
「ただお茶を淹れるだけだろ? 気にすんなって」
 ジェイドはふむ、と口元に手をやる。今回ばかりは見返りを断られては困るのだ。狙った結果を得るのには、もう一歩頑張らなくてはならない。ジェイドは根気強く続けた。
「依頼しておいてなんですが、誰かに借りを作ったままなのは落ち着かなくて……交換条件にしてもらえると助かるのですが」
「ううん、そうか。交換条件かあ」
 正直借りの辺りは嘘だが、契約を円滑に進める為だ。多少の方便は御容赦願おう。
 ジェイドは唸るカリムに追撃する。
「逆に、僕の知っていることを教えるなどはいかがでしょうか?」
「おお、それは助かるな。ジェイドの得意科目は何だ?」
「魔法薬学ですね」
 カリムが目を輝かせた。
「じゃあ、魔法薬学の勉強をオレに教えてくれ!」
 いまいち細かいことは苦手だ、とカリムは眉根を寄せて大げさに嘆く。リリアのように可愛らしい見た目ではないものの、豊かな表情は愛嬌を感じさせた。
「では、紅茶の淹れ方を教える期間中、魔法薬学の勉強を教える……ということでどうでしょう?」
「おう、いいぜ!」
 カリムは元気よく頷いた。

♦♦♦

 ジェイドが当時を思い出していると、カリムが校舎から帰ってきた。
「ありがとうございます」
「いいっていいって。次はこれを沸かそう。任せてもいいか?」
「お任せください」
 ジェイドがマジカルペンをケトルに差し向ける。するとケトルが中空に浮き、軽い音を立てて底に火が点った。
「こんな細かいこと、よくできるなあ」
「細かいことは得意なんです」
「すごいなあ」
 ジェイドはカリムの称賛に気を良くする。
「お湯が沸くまでもう少々お待ちください。どうぞ、座って楽にしていてください」
 カリムは礼を言って椅子に座った。その隙にジェイドは少しだけ火の勢いを緩めた。
(すぐお湯が沸いてしまってはもったいないですから)
 ジェイドは魔法に意識を向けながら、カリムに尋ねる。
「以前、お茶をよく飲むと言っておられましたが、熱砂の国の淹れ方以外も分かるんですか?」
 少しからかった言い方をするジェイドに、カリムはあっけらかんと返す。
「分かるぜ。自国の伝統って言っても、お客さんによっては淹れ方を変えるからな」
「おや、変えるんですか?」
「おう。誰にでも好みはあるだろ? 初対面の人だと難しいけど、よく会うお客さんなら好みに合わせて出してる。持病とかで、甘いものが摂れない人もいるしな」
「そうでしたか」
 ジェイドはカリムの淹れたお茶を飲んだ時のことを思い出した。あの歯が溶けるような甘さは今でも鮮明に思い出せる。
「僕に出したお茶があんなに甘かったのは……」
「それは、うちの国の伝統を知ってもらいたかったし、ジェイドに甘いものを楽しんでもらいたくてな!」
 カリムはにっこり笑う。その顔は嘘をついていない。純度の高い善意に、ジェイドはそっと微笑みを返した。
「でも、今日はアレンジなしで淹れる。この茶葉はストレートが一番美味いからな」
 どうやら今回は譲ってくれるらしい。ジェイドは内心、ほっと胸を撫で下ろした。
「カリムさんのご実家でも、茶葉を取り扱っているんですか?」
「そうだ。例えばこれは、うちの古い傘下さんが扱ってるやつなんだ」
 カリムは缶を持ち上げた。壁面のラベルに微笑みかける。
「ここの社長さんには昔っからよくしてもらってるんだ。新茶が出る度に茶葉のサンプルを送ってもらってる」
「その度に試飲を?」
「一年の楽しみだからな」
 カリムはからりと笑った。
「そういえば、ジェイドの実家はどんな仕事をしているんだ?」
「うちも商家です。カリムさんと同じく」
「そうだったのか! どんな品を扱ってるんだ?」
「手広くいろいろと」
 本当は口に出せないようなこともしているが、そこはあえて伏せておくことにした。
 しばらく話していると、ケトルが音を立て始めた。
「そろそろ茶器をあっためよう」
 カリムは布巾を手に持った。ジェイドはケトルの火を消し、持ち手をカリムの方に向ける。カリムは茶器にお湯を少し注ぐと、ケトルを宙に戻した。
「器があったまったらお湯を捨てて、茶葉はこのくらい。葉っぱが大きいから、気持ち少なめでいいぜ」
 細かいことは苦手という割に指示が細やかだ。
「お詳しいのですね」
「座学はあんまりだけど、こっちはできるみたいだ。あっはっは!」
 茶葉の準備をしている間に、ケトルは再び音を立て始める。
 カリムが再度ケトルを手に取ると、ジェイドは手早く机に置いた砂時計をひっくり返し、映像記録の魔法を発動させた。
「お願いします」
 ジェイドの合図を聞いたカリムが、沸騰したてのお湯をポットに注いだ。
「勉強熱心だな」
「ええ、実践で教えてもらえるのでしたら、得られるものは得ないと」
 カリムはお茶の淹れ方を感覚で覚えているという。他人が感覚で覚えているものを、習得するのは至難の業だ。きちんと覚えるために、技術を解析する必要がある。
 ……あとで個人的に鑑賞する、という理由もあるが。
「しかし、練習用にはもったいないくらい、いいお茶ですね」
ジェイドはすん、と匂いを吸い込む。湯気と一緒に上がる匂いだけで、茶葉が上等のものであると物語っている。
「練習だからこそいいものを使うんだ。いいものを知っておいて、練習でそれに近づけていけばいい……父ちゃんの受け売りなんだけどさ」
 カリムはいたずらっぽく目を細める。
「それに、ジェイドなら良さがわかるかと思って持ってきたんだ。喜んでくれてよかった」
 カリムは屈託なく笑う。あまりのキラーワードっぷりに、ジェイドは手元を狂わせそうになった。キリのいいところで一度録画を止める。
(これが無意識だというのだから恐ろしい)
 カリムは相手と距離を詰めるのが上手いのだ。それも無意識のうちに。更に意外な面倒見の良さも相まって、カリムに気を許す者は多い。スカラビアの寮生は特にそれが顕著だった。
「スカラビア寮生達が、カリムさんを慕う理由がわかります」
「ん?」
「噂で聞きました。カリムさんが、夜通しスカラビア寮生の特訓に付き合っていた、と」
「あー、あいつかな。随分苦戦してるみたいだったから、声かけちまったんだ」
 カリムはテーブルに頬杖をついた。親が子を慈しむような顔をする。
「コツを掴んだらすぐ上手になったから、元々素質はあったんだと思うぜ」
「それもありますが、声をかけてしまうのがカリムさんらしいなと……ご自身の寮生のことを大事になされているのですね」
「ありがとう。リドルやアズールほどいい寮長じゃないかもしれないけど、これくらいはな。あ、できたみたいだぜ」
 カリムが椅子から立ち上がり、コゼーを取った。ジェイドは動画を撮りながら、カリムの手の動きを観察する。紅茶は丁寧な動作でカップに注がれ、オレンジ色の液体が白い陶器を埋めた。
「上出来だな」
 カリムはそう呟くと、ジェイドの前にカップをサーブした。
「冷めないうちに飲んでくれ!」
「いただきます」
 ジェイドはカップを持ち上げる。鼻で芳香を楽しむと、小さく口に含んだ。
「……おお……」
 ジェイドは色の異なる目を開く。口をついた感嘆詞に、カリムが笑みを深めた。
「うまいか?」
「はい、とても」
 カリムは自分の茶を持って椅子に座った。そのまま、じっくり紅茶を味わうジェイドを静かに待つ。
「しっかり抽出できているのに、渋みがなくて飲みやすい……非常に勉強になります」
「そうか、よかった! おかわりもあるからな」
 カリムは紅茶に口をつけ、満足げに頷いた。
「そういえば、ジェイドはなんで紅茶を習いたかったんだ?」
 カリムがジェイドに尋ねる。
「そうですね……趣味、もありますが。僕、給仕の仕事をしているでしょう?」
 モストロ・ラウンジはカフェであり、提供する飲み物にも拘っている。特にジェイドが紅茶好きということもあり、紅茶には力を入れていた。
「せっかくならばお客様に喜んでもらいたいですし、技術の向上を図れればと」
 ジェイドの返答に、カリムは感心したようにため息をついた。
「ジェイドは頑張り屋さんだなあ」
「恐れ入ります。あと、陸の紅茶文化に興味があるので、詳しい方にお聞きしたいと思っていたのです」
「陸の……ってことは、珊瑚の海にも紅茶があるのか?」
 ジェイドは頷いた。
「ええ、あります」
「あるのか……」
 カリムがぽかんと口をあけた。素直な反応が可愛くて、ジェイドはふふ、と笑った。
「でも、海の中でお湯は湧かせないよな?」
「ええ、海に火はありませんから」
「海の中に置いておいても、茶葉はふやけないのか?」
「海では基本的に液体の状態で輸入されます。液体を魔法で固めているので味も分かります。オリーブオイルや調味料も同じ方法で保存されていますよ……ほら」
 ジェイドがカップに魔力を込める。そのまま持ち手を傾けると、液体はカップの中でとろりと流れた。
「蜂蜜みたいだ。奥が深いな……」
 カリムが神妙に頷く。
「海の世界では日常茶飯事です。このあたりは、アズールに聞くと詳しいですよ」
 ジェイドはカップを元に戻し、魔法を解いた。
「僕からしたら、陸の紅茶の方が奥が深いです。砂糖や果汁を入れたり、茶葉を菓子の中に混ぜ込んだりするでしょう? 地域によって飲み方も様々ですし」
「みんな、住む環境が違うからな。海もそういうことか」
 ジェイドは残りの紅茶を飲み干した。
「海でも紅茶は嗜好品で、同年代でお話しできる方は少なくて。カリムさんとこうしてお話ができて楽しいです」
「そうなんだな」
 カリムはにっこり笑った。
「オレでよかったら、いくらでも話し相手になるぜ!」
「ありがとうございます」
(……この素直さ、少し心配になりますね)
 ジェイドは心の中で苦笑いする。
 ジェイドにとって、趣味を分かち合える者がいなくても特に問題はない。自分が好きなものは好き、好きを極めるのに他人なんて関係ない。
(こう言えば、カリムさんは僕を気にかけてくれるでしょう?)

♦♦♦

 ジェイドがカリムへの恋心を自覚したのは、フロイドがカリムを気に入ってから少し後のことだった。
 人魚である自分達に物怖じせず、あのフロイドを巻き込んで宴を成功させた。以来、兄弟はカリムに一目置き、つるむようになった。
 フロイドが気に入る人間がどんなものかと思って見ていると、明るく大雑把な物腰の割に、所作が洗練されていることに気付く。周囲への気配りも、一朝一夕では身につかないものだ。
(面白い人間もいるものだ)
 ジェイドはカリムをさらに観察した。フロイドの話と自分の見識を混ぜ、考察する。人間への観察眼や毒に対する知識も、奪い奪われる世界で生きてきた者でないとわからなかっただろう。
 カリムは決して守られるだけの弱者ではない。
ジェイドはそうして、次第にカリムにのめりこんでいった。そして、彼の優しさが多くの苦労の末に成り立っていると悟ったときには、すでに恋に落ちていた。
 恋を自覚した後、あれこれとカリムに近づこうとしてみたが、なかなかうまくいかなかった。常に隣に彼の従者がいるからだ。得体の知れない敵として警戒され、気づけばうまく躱されてしまっている。
(カリムさんの気を引くにはどうすればいいだろう)
 傍に居られる理由が欲しい。できればカリムに利のある風にして、ジャミルに自ら説明してもらえるような。
 頭を悩ませていた時、スカラビア寮の噂を聞いたのだ。
(これは好都合ですね)
 お人好しの彼は、困っている者を放っておかない。それが人間でも妖精でも、関係なく手を差し伸べる。
(それを利用して、僕も懐に入れてもらおう)
 そうして、ジェイドはカリムを独り占めする権利を勝ち取った。

♦♦♦

 2人でティーポットを空にする頃には、少しだけ日が陰り、秋風が寒さを連れてくる時間になっていた。
「紅茶、上達するといいな」
 カリムはジェイドに慈愛の目を向ける。それは先ほど寮生を思っていた時と同じ、優しい眼差しだった。
「努力します」
 ジェイドはそれに人好きのする笑みで答える。
(今は庇護対象でもいい。もう少し、可愛いふりをしていましょう)
 きっと、「上達する」のはしばらく先の話になるだろう。陸の紅茶は種類が豊富だし、魔法薬学の手ほどきもしなければならない。その間に、じわじわこちらを意識させよう。
 せっかくの好機を逃す自分ではない。これでも追いかけっこは得意な方なのだ。
「もう暫くお付き合いお願いしますね、先生?」
 人魚の恋はそのくらい、一途で激しいのである。