海の商人はクピドとなった

 ことの発端は、同期寮長であるカリムがアズールに頼み事をしてきたことだった。
『恋を忘れさせてほしいんだ』
 カリムはアズールに困った顔をしてそう頼んできた。
「叶えるではなく、忘れさせる、ですか」
 いつも前向きな貴方がらしくない、とは言えなかった。かの人の目がそれだけ真剣だったからだ。
 アズールはソファに背を預け、問題解決のために思考に耽る。
「……恋を忘れるには『新しい恋をするのが一番』とは聞きますが……」
 クライアントが求めていることは『今の恋を忘れる』ことだ。簡単なのは、その周辺の、恋をした相手との記憶をすっぽり失わせることだ。しかし、記憶の操作はリスクが高い。そうなると、合理的な手段は上書きだろう。一応、手立てはあるにはあるのだ。
(カリムさんに新しい恋をする心算はないでしょうから……あくまでこれは処置です)
 その気がない人に心変わりはさせられないというのは不文律だ。何事にも永遠はない。だから、あくまで蓋をするだけ。一時的にでも気持ちを上書きして、慈悲深い嘘が解ける頃に、辛い記憶が少しでも後ろに下がっていればいい。いいのだが。
(……忘れられる訳がないでしょう、そう簡単には)
 アズールは目を閉じる。それは遠い昔のこと、真夜中に古い写真を見つめて頬杖をついていた母親の横顔。記憶の中に欠片ばかり残された温情が、アズールをらしくなく感傷的にさせていた。
「どうしたものですかね」
 アズールがあれこれ考えていると、重たいドアをノックする音が聞こえた。
「入ってください」
「失礼します」
 アズールが返事をすると、副寮長であるジェイドがVIPルームに入ってきた。難しい顔をするアズールの表情を見て、面白いものを見つけたという顔をしている。
「いかがでしたか?」
「あまり芳しくありませんね。少し、ジェイドの意見を聞きたいのですが」
 アズールはジェイドにカリムとの契約のことを説明した。
「カリムさんが恋をしているのですか?」
 話を聞いたジェイドは、色違いの両の眼をパチリと見開いた。
「そのようです」
「……近頃はよくカリムさんの傍にいましたが、全く気が付きませんでした」
 ジェイドは真顔でそう零す。確かにあの冬季休暇の後、2人は一緒にいることが増えていた。他人に関心のないはずのジェイドが、時間を作ってはカリムの元に通っていたのを思い出す。
「珍しいですね、お前が見抜けないなんて」
 アズールが顔を上げると、ジェイドは唇を引き結んで契約書を見つめていた。
 ジェイドは一度、カリムに魔法を破られたことがある。今回も、身近な相手の心を見抜けなかったことが悔しかったのだろう。アズールはそう結論付けて話を戻した。
「とにかく、なんとかして恋を忘れさせる方法を考えなければならないんです」
「そうですね……」
 ジェイドは少し考えたのち、ひとつ頷いてアズールに向き直った。
「アズール。この件、僕に任せてくれませんか?」
 ジェイドはにっこりと口角を上げた。
「わかりました。この件に関してはお前が適任でしょう。うまくやってくださいね?」
 アズールとしても、カリムと仲のいいジェイドが関わった方が都合がいい。
 アズールはジェイドにカリムとの契約書を渡すと、別の案件に取り掛かった。

 数日後、カリムはジェイドに連れられてラウンジにやってきた。
「アズール、今日はありがとうな!」
 アズールの向かい側のソファに座り、カリムは快活に笑った。その様子は、とても苦しい恋に身をやつすようには見えない。
「カリムさんが恋をされていたとは驚きです」
 ジェイドが微笑むと、カリムは一瞬身を硬くした。そして居心地悪そうに目を逸らす。
「……うん、一緒に過ごすうちに好きになっちまったみたいだ」
 カリムは伏せていた目を上げ、まっすぐにアズール達を見る。
「幸せなのに苦しくて、でも一緒に居られるだけですごく嬉しいんだ。こんな気持ち初めてで、どうしたらいいか分かんなくてさ。卒業したらオレは家に帰らないといけないから、せめて今は友達としてそいつと一緒に居たいんだ。だから、この気持ちが相手に迷惑かける前に無くしちゃうことにした」
「……カリムさんなりに考えた結果、というわけですね」
 アズールは相槌を打つ。今回のことも、大商家の跡取りとして考え抜いた結果なのだろう。アズールは同じ商人として、カリムの覚悟を受け止めることにした。
「お任せ下さい。海の商人として、精一杯協力させて頂きますよ!」
「アズールは本当に頼りになるなぁ、ありがとう!」
「ところでこれは興味本位なのですが……相手はどなただったんですか?」
「えっ……そ、それは言えない!」
 ジェイドの質問にカリムが慌てて返す。
「そうですか、残念です。……まあ、すぐに忘れさせてあげますが」
 アズールが背後に立つジェイドを振り返る。後半の言葉がよく聞き取れなかったが、ひとまず話を進めることにした。
「ジェイド、では手筈通りに」
「かしこまりました」
 ジェイドはそう言うと、机に置いていた薬瓶を手に取った。
「これは所謂惚れ薬のひとつです。一定量を摂取した後、初めて見たものを一時的に好きになります」
「新しく、好きになるのか?」
 カリムが不安そうに首を傾げる。
「ええ。ただ、少し特殊なものでして。恋に落ちるのは生物を見た時のみ。無機物を見た際は特に恋をすることなく、その恋心が無機物の中に吸い込まれます」
「そんな薬があるのか!」
「その昔、人間に一目惚れをした人魚が、苦しい恋を忘れるために飲んだと言われています」
 ジェイドは薬瓶の蓋を開ける。本当によく、そんなものを見つけてきたものだ。ジェイドからこの薬を教えられた時、アズールは悔しがりつつも感心してしまった。
「調合はジャミルさんにお願いしましたので、安心してください」
 ジェイドは薬瓶を差し出した。カリムは瓶を受け取ると、目を閉じて一気に中身を煽る。こくん、と喉仏が上下した。
「よし、あとはなにかものを見ればいいんだな!」
「こちらに用意してあります。ちょっと失礼します」
 ジェイドはカリムに手を伸ばし、頭の両脇に掌を添えた。少しだけ上を向かせ、自分の方に顔を向けさせる。
「ん?」
 アズールはジェイドの行動に首を傾げた。打ち合わせでは、小さな巻き貝を見せるはずだったのだが、このままだと最初に目にするのはジェイドの顔だ。そうなると、カリムは新たにジェイドに恋をしてしまうことになる。
(契約不履行にはなりませんが……カリムさんが片思いに苦しむ事実は変わらないのでは?)
 アズールが止めるべきか考えているうちに、ジェイドはカリムに合図を出した。
「さあ、目を開けてください」
 カリムがぱちっと瞼を上げた。眼前の男の顔を見て、ビックリして飛び上がる。
「えっ、な!! なんで、なんで……?」
 戸惑うカリムの目の端でパチパチ、と赤い光が飛び散る。
「上書き完了、ですね。騙すような真似をしてすみません。僕もこんなに誰かを求めたのは初めてでしたので」
 ジェイドがカリムの隣に腰掛けた。
「貴方といると驚くことばかりで、いつもの僕では居られなくなる。でも、貴方の隣にいることが幸せで仕方ないんです」
 ジェイドはしっとりとカリムの頬を撫でる。カリムは恥ずかしそうに顔を横に逸らした。それに気を良くしたジェイドが続けた。
「一時的な気持ちでもいいです。その間に、本物にしてしまえばいいのだから。仮初でもいい、どうか貴方の心を僕に預けてください 」
 カリムはおずおず、とジェイドに赤い目を向けた。
「ええと……ごめん、それは無理だ……」
「えっ」
「オレが好きなのは、最初から同じ人だから……」
 ジェイドはきょとんとした顔で固まった。カリムはジェイドの目を上目遣いで見る。
「好きなんだ……ジェイドのことが……」
「ええっ……」
「……そういう事でしたか……」
 アズールは脱力した。どうやらこのふたり、両片思いというやつだったらしい。そしてアズールは知らないうちに彼らのキューピットになってしまっていたのだ。心配して損した。アズールはやれやれ、と首を竦める。
(……まあ、相手がジェイドなら、障害すらも楽しみそうではありますが)
 気持ちが通じ合った手前、この幼馴染がそう簡単にカリムを手放すとは思えない。ジェイドなら、カリムのいう迷惑もあっさり突破してしまいそうな気さえする。
(ああこれ、僕はお邪魔ですね)
 ふたりの間にはすでに甘酸っぱい空気が流れ始めている。アズールは席を立ち、見つめ合うふたりに声をかけた。
「僕は慈悲深いので、契約は白紙で結構です。あとはふたりでなんとかしてください。一時間後には次のお客様がくるので、それまでに退去してくださいね」
 そう言いおいて、アズールはVIPルームを後にした。