寒風が首許を駆け抜け、黒いひと房の髪を揺らす。冷たい風は故郷と違うやり方で冷たさを運んでくる。ジェイドは圧雪を革靴で踏みしめながら魔法薬学室への道を進んでいた。
高度な錬金術には長時間の攪拌を必要とするものが多い。NRCに勤務する教員はみな優秀な魔法士で、自分の興味に一直線なものも多い。授業だけでは飽き足らず個人研究という名目で実験を行い、ときおり全校生徒に手伝いを募ることがある。
今回、手伝いの募集をかけたのはクルーウェルだった。学内に掲示された要綱はジェイドの興味を引くものだった。実験予定日は特に予定もなかったため、ジェイドはすぐに手伝いを申し出た。
(カリムさんの予定が空いていてよかった)
道すがら、今日のパートナーのことを思い浮かべる。手伝いの内容は鍋の攪拌で、二人一組での申し込みが条件とされていた。アズールもフロイドも各々やることがあるので同伴は見込めそうにない。どうしようかと考えていた時、カリムが声をかけてきたのだ。
『ジェイド、なに見てるんだ?』
声の方を見ると、宝石のように光る眼とかちあう。こちらを仰ぎ見るカリムの顔を見て、ジェイドはふと思い出す。試験でカリムと組んだ際、攻撃の威力が少し上がっていた。つまり、彼と己の魔力相性がいいことを。
(鍋の攪拌は魔力の波長が合う方が良いとされています)
要綱を見るに細かい作業はないようだから、パートナーにしてもいいのではないだろうか。ジェイドはそう踏んで、カリムにひとつ打診をした。
『一緒に鍋を混ぜてほしいのか? いいぜ、いつだ?』
ダメ元で同伴をお願いしたところ、カリムはジェイドの申し出を快く引き受けてくれた。ちょうど予定が空いていたらしい。
(楽しい実験になりそうですね)
実はジェイドはカリムをかなり気に入っている。特に冬休みを超えたこの頃は顕著で、ただの友愛で収まるところなのかわからなくなってきていた。
気になる実験と、気になる陸の人間。2つの楽しみは、無意識のうちにジェイドの尾鰭を急がせた。
白衣に着替えて実験室に入ると、カリムはすでに部屋で待機していた。椅子に座り、実験準備をするクルーウェルと雑談に興じている。入室したジェイドに気づくと、ジェイド、と声をかけてきた。
「カリムさん、早かったですね」
「最後の授業がここだったんだ」
「揃うのが早くて助かる。リーチ、俺様は準備室でもう少し支度をする。少々こっちの準備を頼みたい」
「かしこまりました」
「その前に、良い子の仔犬にはご褒美のおやつをやろう」
クルーウェルは鞭をふるい、移動魔法でなにかを呼び寄せた。カップケーキだ。大きめのそれは購買部で販売しているもので、てっぺんがピンク色のクリームでデコレーションされている。クルーウェルはケーキを適当な皿に乗せ、カリムに手渡した。
「ありがとう先生!!」
「ごちそうさまです」
「ひとつしかないから、誰かに見つかる前に分けろ」
クルーウェルはそう言い残して準備室に入って行った。
カリムは腰かけていた椅子から降り、嬉しそうにジェイドのところに寄ってきた。
「ジェイドが食べていいぞ、これ」
「おや、よろしいのですか?」
「ジャミルと約束してるしな」
「ちょうど小腹が空いていたところだったので、ありがたくいただきますね」
ジェイドは手袋を脱ぎ、カップケーキを受け取った。
「いただきます」
上の方を一口かじると、バタークリームの濃厚な味がする。ケーキ本体は甘さ控えめで、クリームとのバランスがいい。当たり前だが、毒の味はしない。
(僕がかじったものなら食べられるんじゃないだろうか)
ジェイドは考えながらカリムを見る。カリムはジャミルの作った物しか食べない、というのは彼の身近な人間ならよく知っていることだが、毒見を済ませたものや大皿料理なら食べられるなど例外はあるらしい。
ジェイドはこちらを見上げてにこにこしているカリムに微笑みかける。
「おいしいです。毒もありませんし、カリムさんもどうですか?」
「ん、いいのか? 一度あげたものなのに」
「2人でもらったものなので。はい、お口を開けてください」
「わかった」
カリムは少し上を向いたまま口を開けた。白いエナメル質の奥に桃色の舌が見える。従順に食べ物を待つ姿はジェイドの世話好きに訴えかけてくるものがあった。
(さしずめ、ふれあいコーナーの餌やり体験ですかね)
そう失礼なことを考えながら、ジェイドはカリムの口にケーキを近づけた。わずかに背伸びをしたカリムがケーキに食いつく様を見守る。
「うまい!!」
カリムは目を輝かせ破顔した。
「これ食べたことなかったんだけど、おいしいなあ!」
「そうですか、ふふふ」
ジェイドははしゃぐカリムに微笑む。無邪気な様子は、好物を与えられて喜ぶ小動物のようで微笑ましい。
「もっといかがですか?」
「いる!!」
もっと喜ぶカリムが見たくなって、ジェイドは再びカップケーキをカリムの口許に寄せる。カリムは小さな口でカプリと焼き菓子にかじりついた。ジェイドはケーキを咀嚼するカリムを横目に紙型をめくり、自分も一口かじる。
「クリームがないところもうまい!」
「ええ、甘さが控えめでおいしいですね……おや」
ジェイドはカリムの頬にクリームがついているのを見つけた。
「カリムさん、動かないでくださいね」
「ん?」
手袋を嵌めているカリムに代わり、クリームを掬い取ってやった。
「ありがとう、ほっぺについてたか?」
「ええ」
ジェイドは指に付いたクリームを見る。
「ですが、拭くものを持っていませんでした」
ジェイドはあたりを見回す。ティッシュペーパーはなさそうだ。自前のものは鞄の中だし、洗濯するとはいえ実験着でぬぐうのはもっと気が向かない。探すのも面倒だったので、ジェイドはペロッと自分の指を舐めた。
「あ、舐めた!」
一連の動きを見ていたカリムはびくっと首をすくめた。泰然自若、いつも大らかなカリムがビックリしているのが珍しくて、ジェイドは楽しくなってくる。
「ああ、すみません。拭くものを持っていなかったのでつい」
同性の顔に付いたクリームを舐めるなんて、確かにびっくりして仕方がないだろう。
「あ、そっか、手は後で洗えばいいもんな。あはは、よっぽど腹減ってたんだな!」
「僕はそんなに食いしん坊では……」
ジェイドは天然なカリムに苦笑する。好意がなければ同い年の同性にこんなことをするわけなかろうに。
好意……好意?
(好意、ですか)
ジェイドはぱちりと瞬きする。
(ああそうか、やはり友愛ではないと)
ジェイドははた、と口に手をやり考える。
(まさか、自覚するのがこんなタイミングだなんて)
「ジェイド、どうしたんだ?」
カリムは心配そうにジェイドを覗き込んできた。悪い魔法にでもかかったように、彼の瞳がいつもより鮮やかに見える。手に持ったカップケーキより、ずっとおいしそうだ。
「いえ……そうですね。とてもおいしかったです」
打算をしたのは一瞬だった。ジェイドは身を屈め、カリムに顔を寄せる。
「こうやって取り切れていない分を」
そして、クリームが付いていた場所を舌でぺろりとなぞった。
「……舐め取りたくなるくらいには」
頬を舐められたカリムが飛び上がった。舌が当たった場所を手で押さえ、何をするのかと目で訴えてくる。ジェイドは満面の笑みをカリムに向けた。
「手を洗ってきます。残りは差し上げますから、カリムさんが食べてください」
ジェイドはあっけにとられるカリムに微笑んでやると、手を洗うために蛇口へ向かった。
非常に気分がいい。きっと今日はいいパフォーマンスができそうな気がする。
ジェイドの予想通り、その日の実験は大変有意義なものとなった。