春宵一刻

 砂漠の夜は冷える。なんでも、無数の砂が一斉に熱を吐き出し宇宙へ送るかららしい。
(途方もない話です)
 ジェイドは小さく息を吐き出し、空を見上げる。地球から熱を吸い上げてなお、星々はさやかに瞬いている。
「寒くないか?」
 胸と同じ高さから、一対の目が見上げてくる。
「全く」
「慣れてるんだったよな」
 燃える瞳の持ち主は、にっこり笑った。

 
 
『この前のチョコのお返しがしたいんだ。夜の予定が空いている日はあるか?』
 ジェイドがカリムからそう尋ねられたのは、数日前の昼休みのことだった。なんでも、一ヶ月前にあげたチョコレートのお返しがしたいという。
『何をお返ししてくださるんですか?』
 ジェイドは浮つく気持ちを抑えながら尋ねる。
 カリムにあげたのは購買に売られていた金貨型のチョコレートである。一枚数十マドル程度の価値しかない安い菓子だった。
 その時、ジェイドが期待していたのは買い与えた直後までの反応だった。しかしカリムはそのチョコレートを自ら食べて消化していたという。これだけは特別なんだ、と従者に強請ってまで。
『それはナイショだ!』
 カリムは華やかに笑って答えをはぐらかした。少し照れたような様子がむず痒い。カリムは当日の持ち物にいくつか注文をつけると、ジャミルに呼ばれて戻って行った。
 小さなコインの見返りに、恋をしている相手からデートに誘われた。
(何が起こるか、読めないものですねえ)
 だからこそ、かの人は興味深いのである。

 
 
 当日夜。
「よく来てくれたな!」
 かの人は、鏡の傍で鼻頭を赤くして笑った。
「今日はあんまり寒くなくてよかった。春でも寒い時は寒いんだ。いい季節になったなぁ」
 カリムはジェイドを見上げ、たわいも無い話をしてくる。
「すぐ着くから疲れる心配はないと思うぜ」
「今日はどちらへ連れて行ってくださるのですか?」
「着くまでナイショだ」
 話をそらすカリムの声は、少しだけ緊張しているように聞こえた。
(この人でも緊張することがあるんですね)
 ジェイドは上から白いつむじを見下ろす。驚いたり泣いたりはあるけれど、緊張している姿はあまり見たことがない気がする。
 気を詰めるカリムが可愛くて、ジェイドは少し口角を上げる。
(夜に二人きりで会うだけでも思い上がりそうなのに……そんな態度を取られたら、勘違いしてしまいます)
 そもそも、カリムに抱く感情が単純に好奇心だけなら、こんな夜半にデートになんて来ていないのだ。
(僕も大概、単純です)
 ジェイドは込み上げる喜びを喉元に押さえつけ、前を向いた。
 一行は月の方角を目指し、なだらかな砂の丘を登る。中腹あたりでカリムがおもむろに口を開いた。
「監督生に聞いてな」
 ジェイドはカリムの言葉に耳を傾ける。
「この前のお返し、何がいいかずっと考えてたんだ。ジェイドはオレをよく見ていて……特別をくれたから、オレも自分にしかできないことでお返ししたくて」
 大人びた声で言うから、こちらまで緊張してしまう。カリムは早足で数歩先に行くと、丘の向こうを向いた。
「だからさ、これにした」
 砂の丘を超えた先、眼前に広がるのは、小さなオアシスだった。
「オアシス、ですか」
「正しくは周りの植物、だな。来てくれ!」
 カリムはジェイドの手を引いて、オアシスの傍らまで降りた。
「右のそれは薬草だし、奥にあるのは砂漠にしかない毒草だ。サソリの毒と混ぜれば薬になる。あと、ちょっと離れた所にカクタスが見えるだろ? あれは、炎症によく効く。あとは……」
 カリムはひとつひとつ植物を指さした。
「最初の二つは一年草だから、ちゃんと育てれば種が取れる。そうしたら株を殖やして、好きに使ってくれ」
「よろしいのですか? たかだか、量産品のお菓子に」
 カリムが指さしたのは、生では入手困難な植物ばかりだ。その他にも、コレクターがこぞって欲しがるような植物がチラホラ見える。
「あのチョコのおかげで、二週間楽しくて幸せだったんだ」
 カリムは笑顔で頷いた。
「お返しは倍返しなんだろ? 好きなだけ持って行ってくれ! 全部お前のためのものだ!」
 カリムはオアシスを背に両手を広げた。
(ああ、本当に、読めない)
 月を背負って笑うこの人が、眩しくて愛おしい。
(……今ここで、貴方が欲しいと言ったら、一体どんな顔をされるだろう)
 ジェイドは出しかけた本音を笑顔の下に沈める。
「オレはここで待ってるから、好きなだけ摘んでくれ」
 ジェイドは背中を向けたカリムの腕を掴む。きょとん、と首を傾げるカリムへ、ジェイドはそっと願いを口に出す。
「……背後に、気配があると落ち着かなくて。お詳しいんでしょう? 解説してくれませんか?」
「いいのか?」
「ええ」
 ジェイドはカリムにゆっくりと微笑んだ。
 この満ち足りた夜を存分に楽しまなくては、きっと後悔する。

 
 
 それから数刻、採取や収穫で持ってきた鞄がいっぱいになる頃。ジェイドはカリムの傍らに座り、オアシスの水面を眺めていた。
「さすがに草臥れたなぁ」
 水筒の水で喉を潤すカリムを見守りつつ、ジェイドは疑問に思っていたことを問いかける。
「このオアシス、カリムさんが作られたのですか?」
「そうだ」
 カリムはあっさりと頷く。
「二週間くらいかな。枯れたオアシスにユニーク魔法で水を注いで、枯れないように見に来てた」
 カリムはいたずらっ子の顔をして、得意げに胸を張る。ジェイドは目を見張った。
「危ないでしょう」
 海でも陸でも、これだけの植物が二週間で生長しきるなどありえないことだ。神のみわざのような魔法を乱用し、万一誰かに見つかって悪用されでもしたら、カリムの身に危険が及ぶ。
「心配してくれるんだな」
 カリムは他人事のように呟いた。
「寮生には近付かないように言ってあるから、誰もここのことは知らないはずだ。知ってるのはオレとジェイドだけなんだけど、ジェイドは……たぶん、言わないだろ?」
 カリムはするりとジェイドの隣に寄る。
「これはな、ちゃんと秘密にしてくれる奴にしかやらない」
 唇の前に人差し指を持ってきて、妖艶な仕草で目を細くした。
「だから特別なんだ」
 言い終わると、カリムは熟れた赤色を綻ばせた。
 そして、あまりに優しく自分を見つめるものだから、ジェイドはなにか、辛抱堪らなくなってしまった。
 カリムの顎を指で押し上げ、上を向かせる。
「僕がもし悪者で、貴方の力を自分の為に利用すると言ったらどうしますか?」
「その時は……ううん、来ない。来ないよ、ジェイド」
 カリムは首を横に振る。
「だってそうしたら、ジェイドは楽しくないだろ?」
「……ふふっ!」
 ジェイドはカリムの言葉に思わず吹き出した。
 カリムの言葉は真理を突いていた。よく見ているのだ、この人は。その深い場所にある思慮は、ジェイドの気を引いてやまない。もっと探してみたくなる。
 ジェイドは静かなほほ笑みを浮かべるカリムに向き直る。
「ひとつ、確認させて貰えませんか?」
「ん? なんだ、言ってみろ」
 ジェイドはカリムの頬を両手で挟んだ。
「この特別の位置づけはなんですか?」
 ジェイドは熱を込めてカリムの目を見つめる。
「お返しが秘密の共有なんて、僕を期待させるようなことをして。いつもの天然でしょうか、それとも……」
 つりがちの目尻を小指の腹で擦ると、カリムは頬をゆるめる。
「生憎、もう貴方に『齧り取る歯』は使えなくて。だから、教えてくださいませんか? カリムさんがどんな気持ちでここに通ったのかを 」
 問いただす声は少し掠れていた。カリムは困ったように斜め下を見てから、おずおずとジェイドの目を見る。
「ジェイドがオレに特別をくれたことが、本当に嬉しかったんだ」
 カリムはジェイドの両手に手のひらを重ねる。
「オレも、好きな子に喜んでもらいたかった。それだけだよ」
 赤い目を潤ませ、柔らかい笑みを浮かべた。
 ジェイドは右手をカリムの肩に添え、そうっと引き寄せた。そのまま、低いところにあるカリムの額に自分のそれを寄せる。触れた肌は少しだけ、熱かった。
「もう、貴方という人は……道連れにしたくなりますね」
「えっ、道連れ!?」
 カリムは驚いて身を引く。ジェイドは色気のない反応に思わずに破顔した。
「そこは冗談でも頷くところでは?」
「あ、ごめん……」
「ふふ」
 ジェイドが笑うと、カリムが戸惑った顔をする。
「僕も浮かれているんです。慕う方と両想いになれて、幸せじゃない者はいません、そうでしょう?」
 ジェイドはそう言ってカリムの額に口付けた。
「へへ……ありがとう」
 カリムはジェイドの身体にぴたりとくっつくと、手を取ってぎゅっと握ってきた。
「幸せな夜だなぁ、すごく」
 月の光が2人を静かに包み込む。ひと回り小さい身体から甘い花の匂いがして、僥倖に目を伏せた。

 
 

(春宵一刻値千金=春の宵は素晴らしく、そのひとときは千金にも値する、という漢詩から)