値千金

 2月半ば、平日夕方。
 教室で参考書を広げていたリドルは、眉間を揉みながら顔を上げた。辺りは日が傾き始め、そろそろ手元が暗くなる時間だ。リドルは隣で魔導書を読んでいたカリムに声をかける。
「カリム、そろそろ上がろう」
 カリムは、ふはー、と息を吐き、パタリと音を立てて本を畳んだ。
「この本、字が細かくて難しいなぁ」
「まあ、少し難しい内容だからね」
 唸るカリムに、リドルはほほ笑みかける。難しいと言いつつ、諦めないで課題と向き合う姿は褒めてあげてもいいな、と思っている。
「んんー、頭が回らない……」
「糖分不足かな? なにか甘いものは?」
「あるぜ」
 カリムはゆるゆると手を動かし、鞄を漁った。
「えっ、コイン……?」
 カリムか鞄から取り出したのは一枚の金貨だった。リドルは目を丸くして金色の塊を凝視する。
「リドルも食べるか?」
「いや、コインは食べられな……ん?」
 本当に金属をおやつにするのだろうか。そう思ったリドルだったが、コインの断面に線が入っているのを見つけて目を懲らす。
「コインじゃないのかい?」
「面白いだろ?」
 カリムは金貨の端を爪で引っ掻く。すると、ぺりぺりと音を立てて鍍金が剥がれ、中から茶色いものが出てきた。
「……驚いた、チョコレートなんだね」
 正体を知った途端、リドルの警戒が興味に変わる。幼少期は節制気味であったリドルにとって、甘いものは縁遠いものだった。今でもトレイが作るスイーツがある分、こういうお菓子には馴染みがない。
 リドルは瞬きをして、カリムから金貨型のチョコレートを受け取る。リスのキャラクターが描かれた、おもちゃのようなそれ。どうやら自分も根を詰めすぎていたらしい。処理能力の落ちた脳みそが糖分の不足を証明している。
「……やっぱりもらっても?」
「いいぜ」
 恥ずかしそうに咳払いをするリドルを、カリムはからかわない。自分の鞄から菓子をもうひとつ出して、包装紙を解いた。
「君がこんなものを持っているなんて珍しいじゃないか」
 あーん、と口を開けるカリムにリドルが尋ねる。カリムはその特殊な身分のために、食事に関して制限を設けていた。間食は彼の従者が作った物を持参している。
 カリムはああ、と歯切れの悪い返事をして、リドルの質問に答える。
「実はそれ、貰い物で」
「貰い物?」
 それは尚更珍しい。リドルはオウム返しに聞き返した。
「この前の日曜日、宴の買い出しに行ったときにサムの店で見つけてさ。おっきい袋にチョコの金貨がいっぱい入ってて、派手で面白かったたんだ。オレ、あんまりこういうのを見たことなかったから珍しくて見てたんだよ。そしたら、買ってくれた奴がいたんだ」
 きっと、先ほどの自分のようにまじまじと見つめていたのだろう、とリドルは察した。金貨なんて見慣れているだろうに、金貨を模ったお菓子に目を輝かせるカリムはちょっと微笑ましい。
「しかし、君に貢物をする生徒がいるとはね」
 富豪のカリムになにかを買ってあげるというのは、なかなか勇気が要りそうである。リドルが指摘すると、カリムはううん、と唸った。
「そいつ曰く『特別』だったらしくて」
 カリムが優しく金貨の表面を撫でる。
「理由はよくわからないんだけど、そいつがオレのために何かしてくれたことがすごく嬉しかったんだ。だから、ジャミルに無理言って調べてもらって自分で食べてる。大皿料理と一緒で、大量生産の既製品ならまだ安全だろうってさ」
 カリムはそう言って本当に嬉しそうに微笑んだ。つられてリドルも口許を緩める。
「サムさんの店で売っているものなら、何か細工をすることも難しいだろうしね。いいのかい? 僕が食べれば君の分が減ってしまうけど」
「ひとりよりふたりで食べた方が美味いからな」
「では遠慮なくいただくよ」
 リドルはカリムに倣って包装紙を剥ぎ、チョコレートを口に放り込む。甘いチョコレートが舌の上で蕩ける。目を閉じて、滑らかな風味を楽しんだ。
「おいしい」
 素直に口に出せば、カリムはにっと笑う。そしてもう一度鞄を漁り、チョコレートをもうひとつリドルに差し出した。
「一緒に楽しんでくれて嬉しかった。明日にでも食べてくれ」
 カリムは指でコインを滑らせ、リドルの手の中に滑り込ませた。

 
 
「……以上が、僕がこれを持っている理由だよ」
 昨日の出来事の説明を、リドルはそう締めくくる。
 一限目のホームルームでリドルの隣に席を取ったジェイドは、リドルの鞄から転がり出た金貨を目ざとく見つけ、話しかけてきた。
「おやおや……詳しく聞かせていただいても?」
 なぜか食いついてきたジェイドに昨日のやり取りをかいつまんで話してやり、冒頭のセリフに至る。
「それはなんともいじらしい」
 話を聞き終わったジェイドが感想を言う。何を考えているか分からないのは相変わらずだ。リドルはじとりと目を眇め、食えない相手を睨んだ。
「しらじらしいね。カリムにこれをあげたのは君だろう」
 カリムに聞いたところ、なんと贈り主は目の前の人魚だという。
「君、カリムに恩を売って見返りを求めるつもりじゃないだろうね?」
「滅相もありません。随分目を輝かせておいででしたので、買い与えたらどんな反応をするだろうな、と気になっただけです」
「相手を試そうなんて悪趣味だよ。規律以前に、人としてどうかと思う」
「そもそも人間ではありませんので」
 揚げ足を取るジェイドに苛立ちを募らせながら、リドルはつん、と顎を上げて睨めつける。
「そう警戒なさらないで下さい。あれが『特別』なのは本当です。監督生さん曰く、この前の日曜日は、『特別』な相手にチョコレートをあげる日なんだそうです。だから僕も差し上げました」
 ジェイドは目を月のように細めた。
「どうやら無事に、僕の気持ちが届いたようで何よりです」
「よく分からないのだけど、さっきから言ってる『特別』ってなんなんだい?」
 リドルは意味深長なジェイドに怪訝な顔をする。
「しいて言うなら、変哲もないチョコレートに大きな意味を与えるものですね」
 ジェイドは口許に手を当てて微笑んだ。秘密主義者め。リドルは鼻を鳴らして前を向いた。

 
 
「あー、あれ。監督生の世界で『バレンタインデー』っていうらしくって。簡単に言うと、好きな子にチョコあげる日らしいッスよ」
 その日の放課後、エースから『特別』に関する情報を聞き出したリドルは、その意味をようやく理解した。
「この偽物の金貨も、人によっては値千金の価値があるということか」
 どうやら自分は、知らないうちにふたり分の惚気を聞かされてしまったらしい。リドルはやれやれと首を振り、丸いチョコレートを噛み砕いた。