小波

 例えば、前を歩く白い後ろ頭に手を伸ばしたくなる。振り向きざまに大きなつり目と視線が絡む度、心の水面が波打つ。
 あの人といると、らしくいられなくなってしまう。
 故国の紅茶にひどく狼狽えさせられた。賢い言葉を連ねる彼に思考が止まってしまった。 自分のことなのに、理由はまだ分からない。
 だから、これもきっと、どうかしてしまっていたのだ。
 
 
 
 放課後の図書室は既に多くの生徒で賑わっていた。
 秋学期の期末試験。名門校であるこの学園の試験は簡単に突破できるほど甘くない。中間試験で打ちのめされた生徒も、さらに好成績を目指す生徒も、各々書籍を片手に追い込みをしている。
 そんな中、ジェイドは図書室を静かに歩く。次の手駒候補、もとい迷える子羊を探して。
(営業場所にここを選んだのは正解でした)
 ジェイドは密かに口角を上げる。既に今日の分のノルマは達成した。余計なことを問い合わせされないよう、ジェイドは足早に出口に向かう。早く寮に帰り、アズールと予定を擦り合わせなければ。
「おや」
 視界の端に白色が目に入り、書架の角で足を止める。奥の方で、高い位置にある本に手を伸ばす者がいた。
(あれは……カリムさん)
 ジェイドは気配を消して通路を覗いた。目線の先ではカリムが爪先立ちをして、一生懸命手を伸ばしている。何を探しているのだろう、ジェイドは好奇心に駆られ、そっとカリムの後ろに回り込んだ。
(ここは医学書の棚ですが……)
 二学年時どころか、学園に医学の授業はない。カリムは試験とは全く関係ない本を読みたがっているということになる。
(何故でしょう、気になります)
 カリムの知らない姿を見た気がして、気持ちがソワソワと浮き足立つ。ジェイドは好奇心の赴くまま近付いて、カリムの後ろに立った。腕を上げ、カリムの指の先にある本を抜き取る。
「うお!?」
 カリムが驚いて振り向いた。ジェイドはその反応に優越感を覚える。挨拶をして微笑んでやると、カリムはほっと目許を緩めた。
「ジェイドも勉強か?」
「そんなところです」
「偉いな、オレも試験がんばらないと!」
 カリムはジェイドを見上げてにこりとした。
「ところでそれ、もしかして取ってくれたのか?」
 カリムが視線を本に向けた。手を捻って表紙を読む。手に取った本は脳科学の本だった。ますます彼との関係性が掴めない。ジェイドはカリムと本を見比べる。
「困っていらっしゃるようでしたから」
 答えながら本をカリムに手渡した。 カリムは本を受け取ると目次を開く。しばらく文字を目で追うと、ううんと唸って本を閉じた。
 ジェイドはその様子をじっと観察する。
「カリムさんこそ、この本に何の用事が?」
「うーん、最近、ちょっと記憶が飛びがちって言うかな……」
 カリムが気まずそうに左下を向く。
「それは心配です。どのように?」
「あっ、いいんだ! ちょっとしたことだから、大事にしたくないし!」
 カリムは慌てて取り繕う。
「ほんとに、なんでもないんだ」
 カリムは朗らかに言う。しかしジェイドは、彼が僅かに本を抱き締めたのを見逃さなかった。
(困っていますね)
 天真爛漫な彼に不釣り合いな分厚い本。そんなものを読む位なら、誰かに頼った方が得策だろうに。
(誰かに相談できない理由があるのでしょうか)
 ジェイドは長駆を屈め、カリムに目線を合わせる。
「お困りなら力になります」
「ありがとう」
 ジェイドの申し出に、カリムがへらりと笑って答える。らしくない、少し静かな雰囲気を纏って。
 躱されたような気がしてジェイドの心に焦りが募る。この人間の心配事を暴いてやりたかった。 逸る気持ちを抑えるようにジェイドは右手を胸にあてる。
「本当です。僕は貴方のお役に立ちたい」
 ジェイドはカリムを本棚の間に追い詰め食い下がった。
(……これではまるで、頼ってくれと言っているよう)
 頭の中で冷静な自分が言う。ちっぽけな人間なのに、一緒にいるとらしく居られなくなるのだ。
「うーん」
 カリムは右上に視線を向けた。少しだけ考えて、ジェイドに笑いかける。
「じゃあ、この本を戻してくれるか?」
 そう言って、カリムは本を差し出してきた。それはやんわりとした拒絶だった。ジェイドは少しだけショックを受ける。
(壁を作られましたね)
ジェイドは本を受け取り、高い位置にある棚に戻した。下から礼が聞こえてくる。
「ジェイドは優しいな」
「本を戻しただけでしょう」
「本を戻してくれただろ? それに、オレのこと心配してくれた。困ってても、放っておけばよかったのに」
 カリムはにっこり笑う。カリムの瞳は慈愛に溢れていた。その海より深いガーネットに心臓をひどく揺さぶられる。
 ジェイドは波立つ心を抑えつける。心の小波を抑える方法は分からなかった。