六月二十五日、夜十時過ぎ。
スカラビア寮長、カリム・アルアジームの生誕を祝う宴は、今年度いちの規模となったそうだ。カリムを祝いに来たというという大勢の来客、そしてそれを裁く寮生達の熱気。あちこちで聞こえる歌や踊り、歓談の声。それを見守っていたカリムの横顔は、本当に幸福そうなものだった。
盛大な宴の時間はあっという間に過ぎ、片づけを終えた寮生達は口々にカリムへ祝いの言葉を贈り、部屋に戻って行った。きっと、今は誰かの部屋で慰労会と二次会をしているのかもしれない。その位の無礼講は許されるだろう。
「今日の宴は特別楽しかった!」
「それは何よりです」
それならこちらも、ふたりだけの二次会になるのだろうか。そんなことを考えながら、ジェイドは恋人の腕から白いジャケットを抜き取り、ハンガーに吊るした。
「ジャケット着たの、VDC 振りかもしれない」
「普段はカーディガンですものね」
「あ、自分でやるぞ?」
「今日の僕の楽しみですから」
ジェイドは手を伸ばしてくるカリムから、ハンガーを遠ざけた。
なにせ、カリムは今日の主役で、あちこちに引っ張りだこだった。主役なのにじっとしていない主賓は、あちらこちらに顔を出してもみくちゃにされていたのだ。ジェイドはそれを遠目に身ながら出される食事を貪っていた。宴の後の、この特別な時間を楽しみにしながら。
「ここからはジェイドを独り占めだな」
「僕が貴方を独り占めの間違いでは?」
カリムが外したカマーバンドを受け取りながら、ジェイドはサスペンダーにてこずる背中を見守る。今日はカリムの部屋にそのまま宿泊して、夜を明かすつもりだ。昼間の分もたくさん甘やかしてやるつもりでいる。
「んーや、オレが独り占めなんだ」
カリムはループタイを緩めながらジェイドに振り向いた。そのまま一歩だけ近づくと、額をジェイドの胸に預けてくる。
「ジェイド、オレのわがまま聞いてくれるか?」
「なんなりと」
ハンガーを片手に、右手をカリムの肩に添える。
「オレと悪いことしに行こう?」
顔を上げたカリムの目は、サソリの心臓のように輝いていた。
夜の水面は静かにたゆたう。ジェイドは長い尾鰭を、感覚を取り戻すように揺らめかせた。
「悪いことと聞いたので、てっきり闇取引でも行うかと思えば……夜中に学校を抜け出すだけだなんて」
確かに校則を破ることは良くない。規律に厳しいクラスメイトが聞いたら眉間をしかめるだろうが、ジェイドからしたらいつもより小規模な、非常にささやかな悪事だ。
「ちょっと悪いくらいが丁度いいんだよ、こういうことって」
カリムは訳知り顔で言う。きっと、カリムとしては悪いことなのだろう。何せ彼は、超が付くほどの箱入り息子で、最近まで深夜にカップラーメンすら食べたことがなかったというのだから。
「なぜこんなことを思い付いたのですか?」
「誕生日に、ケイトとリリアからダンスの動画を貰ったんだ。練習していた雰囲気もなかったから、いつ練習したんだ? って聞いたら、部活のない日の放課後に集まって練習してたんだって。
その時の話なんかも聞かせてくれたんだけど……それを聞いたら、オレも羨ましくなっちゃって。今しか出来ないことをしたくなったんだ」
カリムは自分達を移送した絨毯に迎えを頼み、海にするりと降り立つ。抑え気味のしぶきは、良質な絨毯に掛からずに済んだようだ。
軽音楽部は際立った実績はないものの、部員同士の仲の良さで有名な部活だ。カリムは個性的な先輩ふたりに特に懐いていて、彼らの話をするときはいつにもまして上機嫌だ。先輩方からしたら、可愛らしくて仕方がないだろうと思う。
海に肩まで浸かったカリムに後ろから近寄りながら、ジェイドは質問を重ねた。
「相手は僕でよかったのですか?」
ジェイドはカリムの腰に腕を回しながら尋ねる。
「ジャミルさんやフロイド、シルバーさんも軽音楽部の先輩方も、喜んで付き合ってくれたと思いますよ?」
言いながら、戯れるように脚に尾鰭を巻き付ける。分かり切った質問は、あえて恋人を困らせるためのものだ。しゅるしゅると、露出した足首に表皮を擦り付けながら答えを待つ。
「選ばないよ。ジェイドがいいから」
「ふふ、光栄です」
「もし、オレが他を選んでたらどうしてたんだ?」
「その方を始末して僕が同伴していましたね」
「はははっ、なら最初からジェイドで正解だな!」
カリムは抵抗しないまま、ジェイドの上体にもたれる。
「一回、ジェイドとも泳いでみたかったんだ」
カリムはそう呟くと、うっとりと目を閉じた。
半年前の冬、幼馴染を助けたいという恋人を、兄弟に託した。フロイドの方が身体能力が優れていたために、あの時の判断に異論はない。だが、少し寂しく思う気持ちがあったのは本当だ。
同じ気持ちでいてくれたことが嬉しくて、ジェイドは「僕もです」と返す。こういう甘え上手なところが、世渡り上手の秘訣なのだろう。世話好きの、そういう気持ちを上手にくすぐるのだ。
「今日はどこまでいきましょうか」
カリムを深く抱きしめたまま、ジェイドは問いを投げかける。
「もう少し沖合いに出たいな。校舎が見えなくなるくらい!」
「だいぶ泳ぎますよ?」
ふたつに分かれたヒレは心許ない。くねる訳でもない足をばたつかせ、泳いでいける範囲など限られている。
「いい。ジェイドが疲れてなかったら、連れていってくれ」
けれど、そんな愛らしいおねだりをしながら、頬を鎖骨に摺り寄せてくるから。
「ご随意に」
願いを叶えてやらなくてはと、そう思ってしまうのだ。
☆
「星、綺麗だな!」
ゆっくり泳ぐジェイドの肩に手を置いて、ゆらゆらと足を動かしていたカリムが歓声を上げた。
「ええ、本当に」
ジェイドは素直な感想を述べる。丸い月が明るいせいで散り散りになっているが、夜空は十分、星々に彩られている。島の街灯りは遠くなり、照明となっているのは月の光だけだ。それでも十二分に明るい。
「ジェイドは星が好きだったよな?」
「よく覚えていましたね」
「その話を聞いた時、オレも! って思ったから!」
カリムは興奮気味に話した。
「オレも昔から、絨毯と一緒に夜のドライブに行ってた。雲の上に抜けたり、川の上スレスレを滑ったりしてさ。そのまま星を眺めてたんだ。外で宴した時なんて、象の背中の上に寝転んで、弟達と星を見たりしてて……」
カリムの手が、ジェイドから離れた。片側の肩に少しだけ体重がかかる。きっと、空に手を伸ばしているのだろう。
「ジェイドが星が好きだって聞いて、オレ達、出会う前に同じ星を見てたかもしれないな、って思ったんだ!」
「それは……どうでしょうね?」
「あれ?」
「北と南では、見える星が違うと言いますから」
「うーん、そっかあ」
背中の上で、残念そうな声が聞こえる。ジェイドは笑いをかみ殺しながら、身体を半回転させた。
「うわっ!」
体勢を崩したカリムを受け止める。カリムは海水に顔をつけてしまったようで「しょっぱい」と唸っている。
「すみません、思ったより浮かれているみたいです。貴方が僕を選んでくれたことに」
ジェイドは泳ぐのをやめると、濡れた髪の毛にキスをした。
「黄道に接する星座はどこでも見られるでしょうから、同じ星は見ていたかもしれません。貴方がロマンチックなことを言うものだから、意地悪を言いました」
喉の奥で疼く強いものを押さえつけて、ジェイドは続ける。先ほどから、愛おしさがこみあげてきてしょうがない。恋人の特別で居られることがこれほど嬉しいことだなんて、カリムに出会うまで知らなかった。
「……確かに、ちょっと恥ずかしいこと言ってたな」
カリムはむくれて横を向いた。ジェイド愛おしくなって、今度こそ肩を揺らして笑った。
「話題を変えましょうね。……今日はどんなプレゼントを貰ったんですか?」
「答えていいのか?」
「僕が質問しているのでいいです」
ジェイドはカリムの背中を撫でながら話を促す。
「ん。そっか。……ラギーにな、ペーパークラフトを貰った。砂漠の魔術師が変身したっていうコブラの。マレウスからはヘアバンドで、オルトには絨毯をクリーニングしてもらった。ジャミルにはオレの好きな料理を沢山作ってもらった!」
「それはそれは。たくさん頂きましね」
「ああ。でさ、リリアとケイトからはお祝いの歌を貰ったんだ」
「……さっきのヘヴィメタルはリリアさん達でしたか」
「斬新だろ? バースデーソングのアレンジなんだってさ!」
カリムは足をパタパタ揺らす。
「他にも、友達みんなからおめでとう、って言われて……そんで今は、ジェイドとこうやって悪いことしてる」
ふいに、カリムの足の動きが止んだ。ジェイドの腰骨にカリムの足が巻き付く。
「最後の最後まで楽しくて幸せな日だった。オレにはもったいないくらい」
ジェイドを包むカリムの手足は、そのままぎゅうう、とジェイドを抱きしめてきた。
「ありがとう」
カリムは心からそう呟いた。
そんなことで喜ぶなんて単純だとか、相変わらずいい子過ぎですねとか、憎まれ口は幾らでも出てくるはずなのに。惚れた弱みはジェイドの牙を、とろりと丸くしてしまったのだろうか。
「僕も、貴方が僕を選んでくれて、悪いことに付き合わせてくださって嬉しいです」
ジェイドは腕の中の、大切な存在への拘束を強める。
「貴方が僕を選んでくれることがどれほど幸せなことか、きっとわからないとは思いますが……」
「ううん、わかるよ。だってジェイドがオレを選んでくれることも、きっと特別なことだから」
「おや、理解があって助かりますね。ふふふ」
「当然だよ、愛してるからな」
カリムはゆっくりジェイドの目を見つめ、笑みをほころばせた。
「ジェイド、オレと出会ってくれて、恋人になってくれてありがとう。オレを選んでくれて……本当にありがとうな」
月に照らされた微笑みに見惚れながら、ジェイドはまろやかな頬を指で撫ぜる。
「僕も、貴方を愛しています。悪いことがしたくなったら、その時はまた僕を選んでください。きっとどこまでも、海の果てまでもお供しますから」
ゆらり、ゆらり。お互いの心臓の音を聞きながら、ひとりと一匹は波に揺れる。はぐれないようにぎゅっと抱き合いながら、お互いを求めあう。
「お誕生日おめでとうございます、カリムさん。生まれてきてくれて、僕に出会ってくださって、本当にありがとうございます」
日付の変わり目を告げる鐘の音はまるで、二人を祝福しているようだった。