夜を泳ぐ

 ウツボは夜の住人である。昼は岩陰に身を潜め、活発に動き回るのは暗くなってからだ。
地上に生きる自分達もまた夜行性のようなもので、授業のない夜間に徴収という名の狩りを行っている。

 今日は外が明るい。
 ジェイドは寮に帰宅する道すがら、窓の外に意識を向ける。光源を追うと、丸い月がこちらを静かに見下げていた。
 ああ、満月か。道理で明るい。
「ほら、フロイド。今日は満月ですよ」
 前をだるそうに歩くフロイドを呼び止める。フロイドは首を動かすと窓の外を見た。
「なんか明るいと思った」
 フロイドはつまらなさそうに顔の向きを戻す。今日の獲物はいまいち食いでがなかったので不機嫌そうだ。
「ええ、いい月ですね」
 ジェイドは星が好きだが、月も嫌いではなかった。晴れた夜に海上に出て、空と海の境目をぼんやりと漂うと、月の光の中を泳いでいるような気分になる。星や月を眺めながら尾鰭を動かすと満ち足りた気持ちになった。
 そして現在。遮蔽物の多い地上では影の濃淡を強く感じる。窓から光が差し込む様は、海の中で見える光の柱に似ていた。
 海ほどではないが、地上の夜も悪くない。ジェイドはそう思っている。地上に来て知ったものは多い。キノコ、植物園、山、赤い色……煌めくガーネットレッド。太陽のように笑う愛おしい恋人。
(……カリムさんは、まだ起きているでしょうか)
 ジェイドはフロイドを先に帰らせ、スマートフォンの通話アプリを起動した。

 電話は3コールで砂漠へと繋がった。
「ジェイドか?」
 珍しい、もう寝てしまっているかもと思っていた。起きていたのか。
「こんばんは。起きていたんですか?」
「なんだか眠れなくてな。絨毯と一緒に月を見てた。今日は満月なんだ」
「ええ、こちらからも見えています」
 カリムが同じ月を見ていたのが嬉しくて、ジェイドも空を仰いだ。満月越しに目が合った気がしてこそばゆい気持ちになる。
「今日の月は色が深くて、ジェイドの左目みたいだって思ってた」
「嬉しいです。僕も月を見てカリムさんのことを思い出していました」
 カリムの純真さに心が温もり、ジェイドは口許を緩めた。お返しにこちらの想いを明け渡すと、カリムはありがとうな、と照れくさそうに笑った。
「地上の月夜は明るいですね」
「深海は、太陽の光も届かないんだよな?」
「ええ、海面まで上がらないと月は見えません」
「なあ、海で見る月って、どんな感じなんだ?」
 ジェイドは海に思いを馳せる。
 真っ暗な空の下、青く揺れる水面を月の光が飾り付ける。静かな波の音と、夜のしじま。たまに人間の船の汽笛の音が響く。
 情景を思いつくがまま話してやると、カリムは静かに相づちを打った。
「砂漠の夜も真っ暗で静かなんだ。たぶん海みたいに」
「おや、そうなのですか?」
「ああ。水はないけど砂漠の砂が波みたいだから、なんとなく似てるかも」
 海の方もきっと、すっげー綺麗なんだろうな。カリムは優しく呟いた。
「なあ、ジェイド。今度は一緒に月を見よう。オレ、ジェイドに砂漠の月夜を見て欲しいんだ。きっと気に入る」
「ええ、もちろんです」
「雲がなければ星もたくさん見られるぞ!」
「それは素敵ですね」
「おう! 月だって、手が届きそうなくらい近くに寄れるんだぜ!」
「あっ、それは結構です」
 ジェイドは目を閉じて壁にもたれ掛かる。
 砂漠と海、真逆の世界が月を通じて繋がっていることが嬉しかった。なにより愛する番とふたり、夜空を泳ぐなんて夢がある。高いところは苦手だが、多少はいいかなんて思える位には。
「では僕も、いつかカリムさんを夜の海にお連れしますね」
「あはは、そりゃあいいな! じゃあ、それまでに泳ぐ練習しておくな!」
 カリムがはしゃいだ声を上げた。本気にしてくれたかは分からないが、提案はお気に召したようだ。
「砂漠の月、楽しみにしていますね」
「ああ、こちらこそ!」
 おやすみなさい、と挨拶をして電話を切る。
 ジェイドはもう一度窓の外を見た。月は少しだけ高度を上げ、闇夜を渡っていく。
 ジェイドは窓辺を離れ、寮へ向かって歩き出した。
 今宵の月が美しいのは、きっと彼がいるからなんだろう。今夜はいい夢が見られそうな、そんな気がした。