ジェイカリ3

快適

 今日の太陽は全てを焼き尽くすようだった。おかげで風呂の水面を叩く雨音が遠い。
ぼやけた思考で自室の風呂に水を張りながら、カリムは汗で湿った服に手をかけた。
「うぅ〜……」
 試験の監督を任されたのはいいものの、少し遊びすぎたようだ。魔法の受け過ぎだろうか、身体中が火に巻かれたように熱い。水の中で燻る熱を逃がしていると、脚元の水が揺らいだ。
「ジェイド」
 波打つ方に頭を傾げると見知った顔があった。今日は顔色が碧い。なぜここにいると尋ねると、通されたからですと答えられる。
「快適です。お邪魔して正解でした」
 風呂の縁に腕を乗せ、ジェイドはどこか楽しそうに尾の先を振るう。
「お加減はいかがですか?」
「ううん、もう少し」
「太い血管を冷やしてみましょう」
 水かきのある手が首にかかる。硬い爪の中ほどが皮膚を圧迫した。
「はは、しんじゃうよ」
「まだ死んではいけませんよ」
 あんな炎天下で無茶をして。ジェイドが穏やかなトーンで言った。
「陸に上がってトントン拍子に楽しい人を見つけたのに、呆気なく手が届かなくなってはつまらないので。なるべく長生きして、ひとつでも突拍子もないことをしていただかなくては」
 身勝手な言葉とは裏腹に、こちらに水を送る尾の動きは優しい。
「心配してくれてるのか?」
「僕の楽しみが減ることを危惧しています」
「ああ……うん、いいか。そのぐらいの方が」
 昔から生きろも死ねも願われ慣れている。不器用な身だ、期待は軽い方が助かる。
「ここを出たら楽しいことはあるか?」
「新鮮なココヤシを用意しています」
「ならジュースを飲むまでは生きようか」
 へりを離れて水に浮かぶと頭のてっぺんがじんわり冷える。するとぬるりとした長いものが腹に巻き付いた。
「溺れ死なないよう見ていますから、少し目を閉じていてください」
「ありがとう」
 身体の力を抜くと、まるで本物のラッコのようですと笑われた。

 
 
 
匂い

 情報収集のために開いた雑誌で知った。人間は自らのパートナーと寝巻きをシェアすると。
「僕のサイズであればカリムさんに着せられそうですね」
 恋人の彼とは体格に差がある。小さい服をギチギチに伸ばして纏い彼を慌てさせるのも一興だが、ここは素直に自分の服を着せるべきだろう。
「さて」
 僕の手元にはパジャマの上着、目の前にはくうくう寝こけるカリムさん。楽しみは恋人の部屋に泊まりに来たのに先に寝てしまった粗忽者には内緒で行うことにする。
 一度眠ってしまうとなかなか起きないので着せるのは簡単だった。シナモンを思わせるしなやかな腕を彼が選ばないであろう濃紺のシンプルなシャツが覆っていく。
 (ふむ)
 カリムさんを寝かせ直して今日の悪戯の出来を眺める。裾も肩も布地が余り、上体と尻を隠している。ズボンを身につけているのでいやらしさはないが、その分子供が大人の服で遊んでそのまま眠ってしまったような微笑ましさがあった。
(可愛らしいですがドキドキはしませんね……おや?)
「う〜……」
 しばらく眺めているとカリムさんが唸った。ころりと寝返りを打つと袖口が鼻の近くに来る。ひく、と鼻が動いたかと思うと、やんわりと表情が緩む。
「へへ」
 ……とても恐ろしいものを見た。この生き物は無意識下ですら僕を翻弄してくるのだ。油断も隙もない。
(僕の匂いが好きだと聞いてはいましたが……本当にお好きなんですね)
 愛されていると、この人と付き合っていると節々で思う。濁りのない愛情というのはどうしてこんなに心を満たすのだろう。耐えきれなくてまろやかな頬に触る。それだけでは足りなくなって、ベッドに寝そべってカリムさんを抱き込む。
「頂いた分、少しでも返せているでしょうか」
 布地に包まれた背中を撫でる。それをむずがったかと思うと、カリムさんは額を僕の胸に押し付けてきた。
 もう今日はこのまま寝てしまおう。僕は指先を照明に翳した。
 
 
 
大好き

 いつもより右のほっぺがあったかい。なんでだろう。目を閉じたまま考えていると、大好きな声がオレの名前を呼んだ。
「おはようございます」
「寝てたか?」
「ええ、ぐっすりと」
「あー、ごめ……んっ?」
 せっかく部屋に泊まりに来たのに、ジェイドの仕事が終わる前に寝てしまったみたいだ。謝ろうとして目を開けて驚く。
「……なんで脱いでるんだ?」
「わけあって貸し出し中です」
 裸のジェイドがオレの背中を撫でる。確かにいつもの寝間着と違う肌触りがした。寝ている間に着せられたらしい。それにしても、大人びた仕草が様になっていてかっこいい。
「全然覚えてない」
「そうでしょうね」
 腕を持ち上げると、紺色の上着から指だけが飛び出している。
「長さが全然違う」
「裾が余ってしまいますね」
 ずり下がる布地を追いかけてジェイドの指が這う。触り方がゆっくりでちょっとえっちだ。そういう気分なのかな。寝ぼけた頭ではよく考えられないけど、恋人に触ってもらえるのはすごく嬉しいなって思う。
「ジェイドは大きいんだな」
 いつもジェイドが身に着けているものがオレの肌に触れている。そのことが嬉しくて大好きで、くすぐったい。気持ちが止まらなくて裸の胸にちゅってすると、背中を撫でていた手が止まった。オレはぐーっと首を伸ばして、白い鎖骨に鼻を押し付ける。
「んー……」
 大好きな匂いに安心していると急に視界が回った。頭が追い付かないうちにジェイドに乗っかられ、両手首を縫い留められる。
「わざとそんなお戯れを?」
 低い声が興奮で揺れている。それに煽られるように臍の下がくすぶった。
「小細工なんてできないよ。わかるだろ?」
 オレはジェイドの腰に両脚を巻き付けた。そしてメロメロなのを隠せない声で頼む。
「きてくれ」
 オレの願いは届いたらしい。ジェイドは拘束を解いて指同士を絡ませあう。そんなことさえ嬉しくって仕方ない。
 この気持ち、伝わってるといいな。オレは幸せな気持ちでキスを受け入れた。
 
 
 
真珠(不穏注意)
 
 カリムさんはすぐ騙される。
 見知らぬ他人の言葉ならいざ知らず、身近な相手の言葉を、棘も毒も気にせずそのままするりと飲み込んでしまう。
「また騙したな!」
 そんな彼に真偽の曖昧な嘘をついてからかうことが最近の楽しみだ。引っかかる時もあれば見抜かれることもあるが、今日は後者だったようだ。
「騙される方が悪いのです。無知でお気の毒」
 毛を逆立てる彼にいつも通りとどめをさすと、目の前の顔からスっと生気が失われた。
「……からかい過ぎてしまいましたか?」
 握ろうとして掬い上げた手が滑り落ちていく。
「……オレ、ほんとは嘘をつかれるのが辛いんだ」
 零れ落ちた言葉が心臓に指をかけた。
「今日は疲れたみたいだ。もう帰るな。また明日」
 ……かけただけで、握り潰して反発してこなかった。
(いつもより疲れていて、本人も流しきれなかった、と。警戒が長続きしない気質と信じようとする癖が、余計に彼を疲れさせたのでしょうね)
……愉悦が背骨をぞくぞくと駆け上がる。
(ようやく見えた)
 埃っぽい砂漠で見た生々しい弱さが目の前にあった。鎧の下に隠された柔らかい肉の部分を、自らの歯で感じることかできた。
(悪意を感じまいと必死なのですね)
 弱った姿にあらぬところが熱を帯びる。吐き出した興奮が黒い革を湿らせた。
 きっと彼に寄り添い続ければ、硬い蓋の中身を愛することを許されたであろう。本来の幸福を捨ててまで凶行に及んだのは、確実に彼のたった一度になるため、彼の敵意を独り占めするためだ。
 そのためならどんな種類の感情であっても構わなかった。だから僕は、より人が選ばない場所に根を張ることを選んだ。
(僕たちだけの宝物、もっと大きくしなくては)
 悪意の核は順調に彼の心を圧迫してきている。けれど、まだ足りない。このさき一生、他の宝に埋もれないよう育て上げなくては。
 僕たちの愛はどんな形を成すだろう。楽しみでならない。
 
 
 
かわいい
 
「やりすぎちまったか」
 カリムさんは押し込まれた客室で頬をかいた。
 彼からすればただ友人を労っていただけなのだろうが、同年代が密着して乳繰り合う状況を容認できるのは一握りだろう。僕も自身の愉悦のために便乗しているに過ぎない。
「お部屋を宛がわれたことですし、せっかくなのでもう少しケアしあいませんか?」
「ん? オレは平気だって」
 カリムさんは笑顔で人の愛情を無下にしてくる。さっきから頑なに僕からの接触を受けようとしないのだ。遺憾ではあるが切り替えたほうが賢明だ。
「では僕が労られましょう」
「それならいいぜ、ほら」
 伸ばされた腕の中に納まり、背中に両手を回して抱き込む。
「ハグが好きなのか? かわいい、意外と甘えん坊なんだな」
 カリムさんのかわいいの幅は広い。甘えたの同性は外見に関わらず愛すべしと判別されるようだ。こちらからすると懐に収まるその姿が可愛らしいのだが、判断に不備があるのか本人は除外されるらしい。
「僕にその評価を下すのは祖母と両親くらいです」
「そうか? 普段とギャップがあってかわいいのに。ほら、もっとしてやる」
 カリムさんは抱擁を強め、あまつさえ僕の鎖骨に頬を押し付ける。負けじと抱きしめ返すと「痛い、痛い」と悲鳴が上がった。
「ではこちらで」
「あははっ! 脇腹はだめだって! くすぐったい!」
 爆弾が投下されたのは、他愛ないじゃれあいが楽しくなってきて、次を仕掛けようとしていた時だった。
「ふー……ジェイドに抱きしめられると安心するな」
 カリムさんはそう言って僕の腕の中に納まりなおす。
「最近は弟達を抱っこする側だったから忘れてた」
 痩躯を深く抱擁すると、珍しく本人の心のうちを見せてきた。白い頭を撫でるとこちらに体重をかけてきた。
「可愛らしい」
 ときめきのままにつむじにキスすると、「わっ」と悲鳴が上がった。
「あっ、からかっちゃだめだぜ?」
 先にそう褒めたのは自分なのに。僕は自分を棚に上げる彼に笑ってしまった。